春季活動・震災教育プログラム①『大船渡津波博物館訪問』
2014/04/04
震災列車を後にして私たちは次に岩手県大船渡市にある「大船渡津波伝承館」へ足を運びました。
こちらは売上金の一部を使って、東日本大震災から二年後の3月11日に仮オープンし、内陸にある「さいとう製菓」の工場の一部を借りて開館された博物館となります。
3・11を忘れない、残したい、と言う思いから当時の状況をリアルに伝えるため、津波映像の解説と被災体験談をお聞きしました。
語り部は、津波伝承館館長でもある齋藤賢治さんです。
当時設置されていた防波堤は津波で完全に破壊されて、そして7万本あった松は1本しか残らなかった(奇跡の一本松)程の津波には相当な破壊力があります。
地震のあった3分後には1.8mの防波堤を超えて町へと浸水していきました。津波のスピードは約40キロで、オリンピック選手でも36キロが限界とされています。
人が津波から逃げ切るためには真っ先に高台へ向かうしかありません。
更に車はたった30センチの水で簡単に浮いて流されてしまいます。
車が津波の押し寄せる方へ向かう映像がありました。しかし気が動転したあまり向かった訳ではありません。
津波がすぐそこまで迫っている事が分からない為、発進してしまったものだと考察されてました。
映像では上からの撮影となり津波がどこから押し寄せているのか分かりますが、実際に街中に立っていると建物の陰や、自分の立ち位置の把握が出来ず知識がなければこの様な結果を招く事があります。方向判断が重要となるので、知識がないと当てもなく走ってしまい大変危険です。
或いは位置が把握できても、家や家族が海側にいる可能性があると心配でそちらに向かってしまうと言うケースもあったそうです。
このような事を招かないためにも事前に家族とは避難場所を話し合って、その場所で合流すべきでしょう。
地震は治まる前に何も持たずに早く逃げるべきだと齋藤さんは仰いました。
何も持たないでというのは秒単位での戦いであり、何かを取りに行かなければ助かった命はもっと多かったのかもしれません。
移動は自分の足がベストです。早く逃げようと車に乗り込む人も多数いましたが、皆同じ考えをしていた為渋滞を起こします。その結果車内で亡くなった人も多数いました。
ですので、津波が起こったら真っ先に高台へ逃げることが大切です。その後のことは逃げきってから考えます。何故なら死んでしまっては元も子もないからです。
しかし津波が起こっている最中は記憶がないと仰っていました。齋藤さんのお父様が1960年に起こったチリ地震を経験していて、その事をとても強く伝えられていたが為に今回の地震にも対応で出来たのことでした。
地震に備えて仕事場には地震に対する注意書きや避難場所を指示した張り紙があったのですが、若い職員はその張り紙の存在にすら気が付いておられなかったそうです。
いかに重要な情報であろうと日常にまぎれてしまえば記憶にすら残らないものなのだと痛感しました。災害教育の重要性があらためて思い起こされました。
津波が過ぎ去ったあと、ひと段落し家に帰って真っ先にした事と言えば「水の確保」でした。何よりも水が後々貴重なものとなるので、確保出来るならすべきとの事です。
電気も止まっている為、連絡が途絶えてしまい大変苦労されたと思います。インターネットが復旧したのが4月半ばと大分遅い復旧だった事は初めて知りました。
ここからは特に私も聞いた事のない話でとても印象に残っています。
齋藤さんは叔母を探すために色々と情報収集や避難所を駆け回ったそうですが、なかなか見つかりませんでした。
どこの避難所にも掲示板のようなものがあり、そこには莫大な張り紙がありました。内容は尋ね人や自分は助かったという報告ばかりでしたが、叔母のものは見つからなかったようです。
死体安置所の中も大変でした。
4月10日には体育館の中がアルコールと死臭しかしなかったと慨嘆されておられました。
今回の震災で圧死が圧倒的であった為、顔の判別が分からなくなりご遺体には顔写真が貼られていました。体育館から出て行く時、誰かに肩を引っ張られる感覚がしたので振り返ってみたら誰もいなかった、そんな経験をしたそうです。
結局叔母が見つかったのはその年の12月、別のご家庭のお墓の中からでした。
お顔が判別出来ないため取り違えてしまい故のことでした。岩手県警皆様が墓の掘り起こし作業を手伝って頂いたとの事です。大混乱の中でのできごとですから、斉藤さんご本人はもちろん誰もこの取り違え攻めたり恨んだりする人は誰一人としていなかったようです。
斉藤さん叔母様のご冥福をお祈りいたします。
一方東京では、「○○町は殆ど津波の被害で流されてしまって生存者はいないに等しい」という噂が流れていました。情報がシャットアウトされていた為しょうがないものだと思います。ですが混乱状況ではデマもまた流れれるものなのですね。通信機器が進化しようとこのことは変わらぬ事実なのでしょう。情報は結局扱う人次第のものだと感ずるお話でした。
齋藤さんの携帯電話が復活し、連絡が取れた時には親族やご友人は泣いて喜んでだそうです。誰もが「もうダメかと思ってた」と口にしたとか。多くの方が齋藤さんの安否を気遣って、電話にでられるのを待っておられたようです。
避難先から仕事場に戻ってみると、2階に置いてあった金庫が何故かなくなっていました。
2階に置いた理由としては、チリ地震の時に来た津波は1階のみの被害で2階には上がって来なかったからです。
なくなった金庫は津波で流されてしまったのですが、総重量は約200キロあるそうです。しかし中は空洞なので簡単に浮いてしまい、2階に置いた意味はなくなってしまいました。
チリ地震で2階までの浸水はなかったから今後の地震も大丈夫だろう、と言う考え方は危ないと仰いました。
そのような考えの方は多く、建物の2階3階で亡くなった方は多数いたそうです。
自分は大変な目に会わないと言う思い込みや、「まだ大丈夫」と言って自宅に折り返す行為等、先の津波被害を基準にして危機感が薄い方が多かったようです。
人間は経験則で動くものですから無理もないとも思えますが、
地震が起こったらまず避難、津波が当然来ると考えて海には絶対近付かない。これが鉄則です。
またこんなことも仰られておられました。
コミュニケーションは人を助ける大切なツールで、1人でいるより人と話す方が心身の落ち着きを得られるそうです。
被災中は食事もろくに食べられなかったのですが、パンを1つ貰った時は涙が出そうなくらい嬉しかったとお話しされました。たったパン1つでもあるかないかで大きく違うのです。
東北はこんなにも苛酷な生活をしていた中、同じ関東圏でも東京等は全く状況が違いました。
大地震は誰もがパニックになります。物資の買い溜めや放射性物質の飛散など関東でも混乱がありました。ですが被災地の直面せざる得なかった現実はここまで苛酷なものだったのです。
このようなお話を知っている人たちはどの程度いるものなのでしょうか。
直接助けられなくても、間接的に手を差し伸べる事はできるはずです。
困っている人がいる限り、目の前にいる、いないに関わらずなんらかのかたちでもって私は最善を尽くしていきたいと感じました。
非常に有意義な体験談で、また一つ震災に対する考え方が変わりました。
因みにスクリーンの後ろにも様々なコーナー設置がされており、
パネル展示
常設展示のミニ水族館コーナー
被災地の3D体験
等が用意されていました。
大船渡津波伝承館 館長 齊藤賢治様
大変貴重な体験談をありがとうございました。
この場をお借りしてお礼を申し上げます。
(左から石川前代表、前田副学長、館長、大藏先生、森代表)
震災に改めて向き合った気持ちで、翌日いよいよ学びーば8を迎えます!!
メンバー一同、ここで聞かせていただいたお話を糧に活動をしていきたいと思います。
井水
日時:2014/04/04 03:09震災教育プログラム