この度私たちは11/21~22にかけて、1995年1月17日に発生した阪神淡路大震災の起こった神戸へ震災学習に行ってきました。

防災に対して幅広い視野で物事を見渡せるよう、東日本大震災だけではなく様々な災害についても学び得て、より関心を深めようということで催されました。

一日目、朝6時頃新幹線に乗り9時頃には神戸に到着するスケジュールだったので、眠そうなメンバーも少なくなかったですsleepy

新神戸駅にて横浜創英大学の神澤さん島村さんとも合流して、まず真っ先に向かった場所が「阪神・淡路大震災記念 人と防災未来センター」での見学でした。西館と東館と分かれていて、見所がたくさんある建物です。

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まず初めに1.17シアターというところに通され、そこでは阪神淡路大震災で建物が倒壊する様子を大型スクリーンと音響で体感できるブースとなっていました。

7分間の上映だったのですが、映像だけでなく照明や効果音なども巧みに用いられていてその場から逃げ出したくなるほどにリアリティの溢れるものでした。大震災の恐怖を体感することができてとても印象深かったです。

上映が終わると、震災直後の街をジオラマ模型で再現した通路を通ったのですが、家はぺしゃんこに潰れ二階がすぐ目の前の高さにあったり、地面には生活用品(ゲームのコントローラーやお皿)が埋まったりしていて、とても生々しい光景だったのをよく覚えています。実際に自分の住む街に大震災が起こり、このような状態になってしまったらこんなに冷静に見られないと思います。ですから再現模型いえども日常的に目にかかることのないものを見られました。

その後は大震災ホールというところに案内され、そこで復興に至るまでの街と人のようすを紹介された映像を見たのですが、実際に被災された方のナレーションを当時の映像と共に視聴したとき、目の前で家族が亡くなる部分では思わず涙ぐんでしまいました。復興とともに希望を取り戻す内容となっており、心にそっと刺さるような内容となっていました。私たちは阪神淡路大震災が起こった頃はまだ幼く、初めて知るようなことばかりだったのですが、この映像でその被災状況や当時の現状などを知り得ることができたと思います。

映像の後は主に、震災時における多くの資料を見て回りました。その中でも印象に残ったのは、当時の方々が残した執筆です。筆跡が直接語りかけてくる震災時の様子は、他のどの資料よりも私に衝撃を与え、忘れがたいものの一つとなりました。

防災センターではたくさんの展示品に溢れていて、とても分かりやすく震災についても深く学ぶことができる素晴らしい建物でありました。展示品の全てを紹介することはできませんが、写真とともにいくつかご紹介させていただこうかと思いますsign01(建物の中のほとんどの展示品は写真撮影可能でした。)

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展示や資料、映像のほかにも震災体験者のお話や施設の方の解説など充実したサービスがたくさん施されており、一人ひとりが災害に対する正しい知識を身につけることができます。

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こちらは施設の方に地震の予測やプレートについて解説をしていただいている最中です。

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なんと避難所の様子も再現されていました。映像や写真では見たことありますが、実際目の前にして見ると一人分のスペースの規模がどのくらいなのかよく分かります。

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本日は修学旅行生も来ていたみたいで熱心に展示物に目を通していました。彼らの心にはどのように響くのでしょうか。

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避難所パズル・・・こちらはHUG訓練にとてもよく似てますねeye

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活断層ジグソーマップ東北編にチャレンジする大蔵さん。

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人と防災未来センターの見学はゆうに一時間を越えていて、ガッツリ見ごたえのあるものでした。「災害がなくならないのならば、被災をなくそう」という心構えが印象に残っています。防災の心を徹底して未来のことも幾多に考えており、私は考えさせられることばかりで本当にタメになりました。

施設見学の後は南京町で昼食をとりました。横浜の中華街とはまた違った雰囲気が味わえます。

その後南京町から歩いて15分程のところにある「神戸港震災メモリアルパーク」を見学しました。メリケン波止場の被災部のうち約60m区間がそのまま保存されていて、見学できるように整備された公園です。港側には震災遺構である大きく崩れた岸壁があり、震災の傷跡がそのまま残されている様子は言葉では言い表せないような無力感や虚無感を味わい、何とも言えない気持ちになったのを覚えています。

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また、休憩スペースと展示が一体となった「復興ゾーン」というのもあり、神戸の震災状況、復興過程、復興計画などが紹介されており、この公園もまた震災における大切な場所でありましょう。

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Dsc_0058 すみずみまで見学しました。

そして、この日の最後の予定として神戸を観光sign03

三宮駅から北に急な坂を登り異人館に訪れました。ここからは自由行動となったので、各自みな行きたいところへ足を運びます。英国館やテディベアミュージアム、ラインの館など、ここにしかないような洋風でおしゃれな建物がたくさんありました。クリスマスシーズンだったので、サンタさんが家の外に何人もいて可愛かったですsnow

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時間が限られていたので全てを回ることはできませんでしたが、どの館も独特な雰囲気がありとても楽しめました。こうして一日目はホテルにチェックインしたあと、大蔵さんの指揮のもとミーティングを行い各自就寝となりました。

そして二日目がやってきました!この日は長田商店街を見学したあと、新幹線に乗って帰る予定です。

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JR新長田駅南側、若松公園内には鉄人28号の巨大モニュメントが設置されていて、こちらはNPO法人「神戸鉄人プロジェクト」が復興支援と地域活性化のシンボルとして期待を託し作られたようです。

この長田商店街は震災前、西神戸を代表する商店街として下町らしい活気に溢れていました。しかし1995年1月17日、大地震と共に火災で大きな被害を受けた商店街は「神戸の副都心」を目指して全国最大級の再開発が行われます。

創造的復興シンボルとして再開発事業が行われ、「神戸の副都心」とうたわれ防災拠点・安心安全な街づくりを目指していたはずが、実際ふたを開けてみると再開発は庶民の町にふさわしくない高層ビルの乱立。地元で商売していた人たちはそこに住めるお金もなく入居困難に。さらに商店街の客足は減ってゆき、シャッターを下ろすお店も増えていきました。これは行政が引き起こした”復興災害”とも言われ問題となっています。

そこで2009年にできたのがこの「鉄人28号のモニュメント」。このモニュメントは長田商店街の誇りであり希望を与える存在となりました。このモニュメントで観光客が訪れ長田商店街に足を運ぶ人々も増えるようになり、商店街全体の知名度も上がっていきました。少しずつですが当時のような活気を取り戻して、いつしか昔と変わりのない長田商店街になることを祈っています。

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商店街をずっとまっすぐ行くと「震災ミュージアム」というブースがあり、そこには被災時の長田商店街のようすや商店街の方々の声を集めた小さなタワーなどの展示がありました。

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商店街の方々はあの日を忘れず力強く生きていることが伝わります。

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そうして私たちは神戸をあとにして横浜へと帰ります。

この二日間を通してボランティアをやろうという意識が高まりました。特に一日目にはなかなか見ることのできないもの、初めて知ることも多くとても貴重な体験ができました。機会があれば、個人としてもまた神戸に行き、じっくりと見つめ合いたいと思います。

今回の震災学習に参加できて良かったです。神戸で得た災害の知識や体験は参加されていないメンバーにも伝承していき、今後のボランティア活動に大いに貢献していきたいです。

長くなりましたが、ここまでのご閲覧ありがとうございました。

岩崎

春季学びーば8活動前日、三月二十四日のことになります。

私達学生ボランティアチームは震災から3年が経つという事もあり震災学習プログラムの一環とし岩手県大船渡市の三陸鉄道・南リアス線で運行されていた震災学習列車に乗ってきました。乗車したのは今活動に参加したメンバー、そして鶴見大学副学長の前田先生も乗車されました。

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マスコットキャラクターのつるみんも一緒に乗車happy01

この時電車につるみんとつるたんのプレートを付けさせていただきましたshine

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この震災学習列車は四月五日に三年ぶりに運行再開された三陸鉄道・南リアス線の盛駅~吉浜駅間を走ります。運行再開を控えて路線は試験運行車両が走っているのですが、その中に震災学習列車も走り、車窓からの沿岸部を見つつ、その土地での震災時のお話を聞かせていただくというものです。

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私達が乗った時ガイドしてくれたのは三陸鉄道南リアス線運行部運行部主任をされる熊谷松一さん。

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初めに今の状況をお話しして頂きました。

復興は進んでいるが未だ瓦礫が撤去できただけで以前はJRが主な交通手段だったが気仙沼線(柳津~気仙沼間)”及び”大船渡線(気仙沼~盛間)”の仮復旧として代わりとなる交通手段がBRT(バス高速輸送システム)なっているそうです。電車と違いバスなので一度に乗れる旅客数は減ったのですが本数が増えているとのこと。

次にお話して頂いたのは太平洋セメントさんが瓦礫撤去をするための設備を作り活動されていると言うお話でした。

石灰石を混ぜて1日の300tのコンクリを作っていて3月には瓦礫撤去が終わるそうです。

まるまる三年かかったことになります。

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南リアス線の盛駅~吉浜駅間はトンネルが多く14ヶ所もあり7割がトンネルと橋だそうです。このトンネルと橋の復旧には108億円の復旧費用がかかる計算だったのですが青森自衛隊の線路が瓦礫撤去した事により実際は92億円の復旧費用になったそうです。

津波の被害で使えなくなっていた線路を新たに作ろうとしたとき縄文遺跡の貝塚が見つかったため当初の場所より100m離れた所に作る事になりました。

昨年の2月に新車両を3両作るが津波で3両とも壊れてしまいましいた。それを知りクウェートが400万バレルの原油を支援しそれを被災3県で分けました。レトロ列車も含め4両400億円をクウェートの支援で作製することが出来たそうです。

感謝の意味を込めて国旗を車体に入れることを申し出るもわざわざ入れなくていいと言われせめて紋章だけでもと申し出ると紋章を入れることを容認して頂いたので電車の前にクウェートの紋章が入っています。

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電車には感謝の言葉も入れられてました。

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綾里についてもお話しして頂きました。綾里では数十年に一度は大津波が来るそうです。そのため誰もが一度は津波を経験するそうです。

綾里に住んでいるおばあさんは3回も経験しているとも言っていました。

綾里の小学校についてのお話も聞きました。綾里小学校では当時子ども達は全員学校に居たのですが駅に集合して山側土手に避難した時ガイドの熊谷さんの長男(6年生)が「寒かった」と言っていたそうです。綾里小学校では「津波」の劇があり(3.11より以前)津波に対する意識が高い子ども達が多い一方で、大人たちの方が意識が低く海を見に行ってしまい被害に遭ってしまう人もいたようです。

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綾里湾は陸の孤島になる地形のため防潮堤は壊れたままで孤島になる地形ため支援物資が届くのは3日後(3.11より)でした。そのため熊谷さんは3日分の食糧が必要と言っていました。当時はプロパンガスの世帯がほとんどだったためガスは使えたという幸運もあったようです。

特に苦労したのが安否確認、家族で最終避難場所を決めておくべきだと言っていました。

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小石浜駅についてお話しして頂きました。小石浜駅は傾いた場所にあったため駅は元々ありませんでした。小石浜にはホタテの養殖所があったのですが津波で壊されてしまいましたが、今は8割回復しているそうです。しかし青年会の人が小石浜ブランドのホタテを復活させました。小石浜駅にはホタテの貝殻に復興の願いが書かれています。

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今は恋し浜と言う駅名になっています。

Dsc_0768ほれい地区では海が近いので家屋が津波、押し波、引き波で壊されることもあるそうです。それでもほれい地区にあった松は津波にあっても生きていました。

ほれい地区では防潮堤の工事をしていて3mだった物のを新たに10mに作り直しました。第二の防潮堤も国から認められお金もでています。

復興が進むことで工場や造船所が稼働するようになっても、設備投資がなかなか出来ないと言っおられました。仕事は多くともそれが落ち着けば以前の仕事量に戻ります。だからこそ軽々に人を雇うことはできないそうです。

被災地では正規雇用する事業者が少ないとは聞いておりましたが、なるほどと思わされるお話です。

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三陸駅で黙祷をさせていただきました。三陸駅ではアパートや下宿は全て流されてしまったそうです。沿岸部の被害はやはり想像を絶します。

越喜来(オキライ)地区では津波がまっすぐ入ってくるので被害が大きく駅の中まで浸水しました。「そろ」と言う老人施設では50名近くの方が亡くなられ、埼玉から来られた生徒さんも車いすの避難の手伝いをしていたが間に合わなかったそうです。なんとも痛ましいお話で言葉がありませんでした。ご冥福をお祈りします。

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越喜来地区では今防潮堤の工事をしていて住民の意見で10~14mの高さの防潮堤を作っています。高すぎると湿気がこもってしまいますが、10m以上はないといけないそうです。

地震の影響で地上の地形が変わり海中も同様に変わってしまいました。そのことで潮の流れが速くなり漁に出られなくなる日が増えたそうです。

 どこにも、誰にも震災の今も明確なかたちで影響が残っていると感じます。

よしやて地区のお話もして頂きました。よしやて地区は奇跡の集落と言われていて、流された家が4件で亡くなられた人が1人とまさに奇跡だと思いました。しかしそれにも理由があります。沿岸部なのに何故これほど被害が少ないというと明治に「ここより低いところには家を建ててはいけない」と決められていたそうです。

低い場所は元々農地として使用していたため県道より下には建設しなかったそうです。

先祖の教えを守ったおかげで被害が少なくてすんだ、私たちも地元で言い伝えや経験談を見つめなおす必要があるのでしょう。

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ちなみに終点の吉浜駅では志村けんさん1日駅長さんをしたとのこと。

志村さんにならって復興願い敬礼confident

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今まで気仙沼を中心に活動してきましたが、岩手でまた震災を見つめなおし、地元で活かすことを考えなおすことができました。

三陸鉄道南リアス線、北リアス線が運行再開したのは地元の皆さんの大きな喜びだったでしょう。

震災以前の風光明媚な景色は車窓から見える津波の爪痕が残る景色でも想像することができました。いつか美しい三陸の海をまた三陸鉄道から見てみたいと思います。

この度、お世話になりました三陸鉄道の皆様ありがとうございますhappy02

 紙谷

震災列車を後にして私たちは次に岩手県大船渡市にある「大船渡津波伝承館」へ足を運びました。

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こちらは売上金の一部を使って、東日本大震災から二年後の3月11日に仮オープンし、内陸にある「さいとう製菓」の工場の一部を借りて開館された博物館となります。

3・11を忘れない、残したい、と言う思いから当時の状況をリアルに伝えるため、津波映像の解説と被災体験談をお聞きしました。

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語り部は、津波伝承館館長でもある齋藤賢治さんです。

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当時設置されていた防波堤は津波で完全に破壊されて、そして7万本あった松は1本しか残らなかった(奇跡の一本松)程の津波には相当な破壊力があります。

地震のあった3分後には1.8mの防波堤を超えて町へと浸水していきました。津波のスピードは約40キロで、オリンピック選手でも36キロが限界とされています。

人が津波から逃げ切るためには真っ先に高台へ向かうしかありません。

更に車はたった30センチの水で簡単に浮いて流されてしまいます。

車が津波の押し寄せる方へ向かう映像がありました。しかし気が動転したあまり向かった訳ではありません。

津波がすぐそこまで迫っている事が分からない為、発進してしまったものだと考察されてました。

映像では上からの撮影となり津波がどこから押し寄せているのか分かりますが、実際に街中に立っていると建物の陰や、自分の立ち位置の把握が出来ず知識がなければこの様な結果を招く事があります。方向判断が重要となるので、知識がないと当てもなく走ってしまい大変危険です。

或いは位置が把握できても、家や家族が海側にいる可能性があると心配でそちらに向かってしまうと言うケースもあったそうです。

このような事を招かないためにも事前に家族とは避難場所を話し合って、その場所で合流すべきでしょう。

地震は治まる前に何も持たずに早く逃げるべきだと齋藤さんは仰いました。

何も持たないでというのは秒単位での戦いであり、何かを取りに行かなければ助かった命はもっと多かったのかもしれません。

移動は自分の足がベストです。早く逃げようと車に乗り込む人も多数いましたが、皆同じ考えをしていた為渋滞を起こします。その結果車内で亡くなった人も多数いました。

ですので、津波が起こったら真っ先に高台へ逃げることが大切です。その後のことは逃げきってから考えます。何故なら死んでしまっては元も子もないからです。

しかし津波が起こっている最中は記憶がないと仰っていました。齋藤さんのお父様が1960年に起こったチリ地震を経験していて、その事をとても強く伝えられていたが為に今回の地震にも対応で出来たのことでした。

地震に備えて仕事場には地震に対する注意書きや避難場所を指示した張り紙があったのですが、若い職員はその張り紙の存在にすら気が付いておられなかったそうです。

いかに重要な情報であろうと日常にまぎれてしまえば記憶にすら残らないものなのだと痛感しました。災害教育の重要性があらためて思い起こされました。

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津波が過ぎ去ったあと、ひと段落し家に帰って真っ先にした事と言えば「水の確保」でした。何よりも水が後々貴重なものとなるので、確保出来るならすべきとの事です。

電気も止まっている為、連絡が途絶えてしまい大変苦労されたと思います。インターネットが復旧したのが4月半ばと大分遅い復旧だった事は初めて知りました。

ここからは特に私も聞いた事のない話でとても印象に残っています。

齋藤さんは叔母を探すために色々と情報収集や避難所を駆け回ったそうですが、なかなか見つかりませんでした。

どこの避難所にも掲示板のようなものがあり、そこには莫大な張り紙がありました。内容は尋ね人や自分は助かったという報告ばかりでしたが、叔母のものは見つからなかったようです。

死体安置所の中も大変でした。

4月10日には体育館の中がアルコールと死臭しかしなかったと慨嘆されておられました。

今回の震災で圧死が圧倒的であった為、顔の判別が分からなくなりご遺体には顔写真が貼られていました。体育館から出て行く時、誰かに肩を引っ張られる感覚がしたので振り返ってみたら誰もいなかった、そんな経験をしたそうです。

結局叔母が見つかったのはその年の12月、別のご家庭のお墓の中からでした。

お顔が判別出来ないため取り違えてしまい故のことでした。岩手県警皆様が墓の掘り起こし作業を手伝って頂いたとの事です。大混乱の中でのできごとですから、斉藤さんご本人はもちろん誰もこの取り違え攻めたり恨んだりする人は誰一人としていなかったようです。

斉藤さん叔母様のご冥福をお祈りいたします。

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一方東京では、「○○町は殆ど津波の被害で流されてしまって生存者はいないに等しい」という噂が流れていました。情報がシャットアウトされていた為しょうがないものだと思います。ですが混乱状況ではデマもまた流れれるものなのですね。通信機器が進化しようとこのことは変わらぬ事実なのでしょう。情報は結局扱う人次第のものだと感ずるお話でした。

齋藤さんの携帯電話が復活し、連絡が取れた時には親族やご友人は泣いて喜んでだそうです。誰もが「もうダメかと思ってた」と口にしたとか。多くの方が齋藤さんの安否を気遣って、電話にでられるのを待っておられたようです。

避難先から仕事場に戻ってみると、2階に置いてあった金庫が何故かなくなっていました。

2階に置いた理由としては、チリ地震の時に来た津波は1階のみの被害で2階には上がって来なかったからです。

なくなった金庫は津波で流されてしまったのですが、総重量は約200キロあるそうです。しかし中は空洞なので簡単に浮いてしまい、2階に置いた意味はなくなってしまいました。

チリ地震で2階までの浸水はなかったから今後の地震も大丈夫だろう、と言う考え方は危ないと仰いました。

そのような考えの方は多く、建物の2階3階で亡くなった方は多数いたそうです。

自分は大変な目に会わないと言う思い込みや、「まだ大丈夫」と言って自宅に折り返す行為等、先の津波被害を基準にして危機感が薄い方が多かったようです。

人間は経験則で動くものですから無理もないとも思えますが、

地震が起こったらまず避難、津波が当然来ると考えて海には絶対近付かない。これが鉄則です。

またこんなことも仰られておられました。

コミュニケーションは人を助ける大切なツールで、1人でいるより人と話す方が心身の落ち着きを得られるそうです。

被災中は食事もろくに食べられなかったのですが、パンを1つ貰った時は涙が出そうなくらい嬉しかったとお話しされました。たったパン1つでもあるかないかで大きく違うのです。

Dsc_0971_3        (スライドに見入るメンバー)

東北はこんなにも苛酷な生活をしていた中、同じ関東圏でも東京等は全く状況が違いました。

大地震は誰もがパニックになります。物資の買い溜めや放射性物質の飛散など関東でも混乱がありました。ですが被災地の直面せざる得なかった現実はここまで苛酷なものだったのです。

このようなお話を知っている人たちはどの程度いるものなのでしょうか。

直接助けられなくても、間接的に手を差し伸べる事はできるはずです。

困っている人がいる限り、目の前にいる、いないに関わらずなんらかのかたちでもって私は最善を尽くしていきたいと感じました。

非常に有意義な体験談で、また一つ震災に対する考え方が変わりました。

因みにスクリーンの後ろにも様々なコーナー設置がされており、

パネル展示

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常設展示のミニ水族館コーナー

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被災地の3D体験

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等が用意されていました。

大船渡津波伝承館 館長 齊藤賢治様

大変貴重な体験談をありがとうございました。

この場をお借りしてお礼を申し上げます。

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(左から石川前代表、前田副学長、館長、大藏先生、森代表)

震災に改めて向き合った気持ちで、翌日いよいよ学びーば8を迎えます!!

メンバー一同、ここで聞かせていただいたお話を糧に活動をしていきたいと思います。

井水

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