先月、2月17日のことになりますが東京都板橋区文化会館にて災害支援セミナー”つなぐ”が開催されました。

本団体もこちらのセミナーに参加させていただきましたが、宮城県気仙沼の菅原 茂市長がご講演され、大変に興味深い講演でしたのでブログでもご紹介させていただきます。

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長い記事となりますので、追記にて詳細を記載致します。

『大火災と緊急消防救助隊』 東日本大震災は津波による大災害として記憶されていますが、気仙沼は大火災が起きた街でもあります。火災は湾内に流出した重油に引火し火の海となったのはTVの映像でも多く方が目にされたものだと思います。

菅原市長によりますと漁業用として備蓄されていたタンクから流出したA重油が、発生された火災により温度が上がり引火して、それが大火災の原因になったとの事でした。

完全沈下したのが3月25日。夜も空を赤々と染める猛火であった状態は聞いていましたが、11日に発生した火災は沈下までに2週間という期間が必要だったとは初めて知りました。

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緊急消防救助隊は3月12日には先遣隊が現地に到着し活動を開始。大火災と戦いつつ、遺体捜索を続けた9都道府県1,141部隊4,317名の方々は48日間それこそ獅子奮迅の働きをされたそうです。

そして最後の部隊が撤退していくとき、部隊長さんの次の任務は「福島原発の燃料貯蔵プールの冷却のための放水」だと言い残し気仙沼を後にしたとの事でした。さらなる厳しいミッションに向った隊長さんの心中はどんなものだったのでしょう…。

『今も続く医療支援』 医療の現場でも深刻な状況にありました。

病院の半数、診療所の7割、歯科医院の6割が被災。燃料等の問題から透析の維持が難しくなり千葉・秋田・山形・北海道への透析患者の遠隔移送(北海道へは松島基地から自衛隊機で移送)、それ以外でも様々な疾患を抱える患者さんが調剤・処方箋を求め病院に列をなしました。

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東日本大震災気仙沼DMAT・医療救護班の活動は1日に多い時は130人もの応援があったそうです。

現在も学識経験者や医療・福祉系の専門職による外部支援7団体(東京都健康長寿医療センター研究所、日本老年医学会、日本臨床発達心理士会、日本老年行動科学会、医療法人社団つくしんぼ会、子どもの発達支援を考えるSTの会、鶴見大学歯学会)が復興過渡期の支援にあたっています。

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『受援体制』 発災後の対応についてもはじめて聞くことありました。

救助物資の受入、整理、搬送は大変に難しい仕事です。ところが受援体制については地域防災計画に明記が無いそうです。

集まり続ける膨大物資を備蓄・整理する場を確保し、荷下ろしから分別まで行ったのは税務課職員の皆様だったようで、それをボランティアや市内の運送業者の方々が搬送支援され、被災者に届けられていたとの事です。

とはいえ物資の分別は高度な人の運用と資機材の活用どちらにも習熟していないと出来ないものです。これは自衛隊による兵站業務(※)の技術支援が大きかったようです。

(※兵站:戦闘部隊の後方にあって、人員・兵器・食糧などの前送・補給にあたり、また、後方連絡線の確保にあたる活動機能。)

この受援体制の構築は本団体でもHUG訓練らで取り組もうとしてきた事でもありました。

ただ実際の被災の現場で行う運営とでは、どれだけの隔絶があるものなのかすら分かりません。私達も気仙沼の経験をどうにか引き継ぐ方法を考えねばなりません。

『復興事業』 津波被害を数字で見ていくと浸水面積は気仙沼市面積の5.6%に過ぎません。

気仙沼市の特徴として、漁業の盛んな町であり海際に建物が集結しているのと、海岸線からすぐ山となり平野が少ないため、家屋の被災割合は40.9%という結果に。そのため被災事業数は80.7%、その被災従業員数は83.5%と被害の凄まじさが見受けられます。

また漁船の被害も甚大なものでした。40隻以上の大型船が陸に打ち上げられ、約3000隻の漁船が流出・損壊。漁業で経済がまわっている気仙沼にとって魚市場や関連施設の被害は就労の場がなくなることを意味します。

家屋の被害だけでなく驚くべき事は土地そのものへの影響の大きさがあります。

地盤沈下は0.6から0.7m、更に土地そのものも東南東に場所に5m弱も移動しています。

私たちはこれまで4、5カ月に一度は現地を訪れ土地のかさ上げを見てきましたが、その全体像は分かっていませんでした。それをこの講演でいくらか理解出来たように思います。

特に強調されていたのが復興事業における防災堤整備の考え方でした。津波死0の街を目指し、津波をレベル1、レベル2に分類。

レベル1は《数十年から百数十年に一度の津波》と規定し、

人命及び資産を守るレベルであり、産業基盤も守る措置をする。

レベル2は《千年に一度などの最大級の津波》と規定し、

構造物対策の適用限界を超過するため人命を守るために必要な最大限の措置をする。

産業基盤に重大な損害を被ったことを考えるとこの規定は納得できました。

この規定を防災堤背後の地形や区画及び建造物を鑑みて防災堤を作らない、原型復旧を目指す、防災堤の高さをレベル1あるいは2に合わせ個々の事例に合わせ考えているそうです。

これを基に災害危険地域を指定、土地区画整理、集団移転、水産加工施設等集積地整備事業が進められ、被災者も住まいの確保、再建をすすめていく事を方針としておりました。

防災堤の整備計画は復興事業の根幹を成すと言えそうです。菅原市長はこの防災堤整備をできるだけ早く策定することを目指したとのことでした。

仮設住宅は建設戸数にして3,504戸あったものが現在でも2,900戸あり、これに加えみなし仮設住宅も1,133件。人口6万8,000人ほどの人口の内のいまだ10,000人以上が一時的な住居で生活をされていると聞くと今あらためて被害の大きさに慄然とします。

あらからもう三年を経過しているのにも関わらずこれが現実です。

『出来ませんとは言いません』 最後に菅原市長は被災当時の心構えを語られました。市長は市役所の職員の皆さんに「出来ません」とは私達は言わないようにしましょうと述べられたそうです。

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市民は市役所に切実な問題を一縷の望みをかけて来られます。だからそれがたとえ対応が難しいものであったとしても、「出来ません」という事は今にも崩れ落ちそうな気持を抱える人を絶望の底に突き落とす事になると。

どうにも出来なくともそこで悩みを話す事で、いくらでも気持ちを楽に出来るのならば話を聞く事が必要なのだと仰っておりました。

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非常に貴重なセミナーを拝聴する事が出来ました。

日時:2014/03/11 17:21

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