8/21 学び―ば活動後、興福寺にて
2013/09/07
2013年夏季学びーば通算9日目。
いつものように子供たちとの活動を終え、「興福寺」というお寺へ皆で向かいました。
上鹿折地区にある興福寺は私たちが活動をする鹿折小学校がある鹿折地区から車で10分程内陸に入ったところにあります。
日本有数の漁業の街として栄えてきた宮城県気仙沼市。
その気仙沼湾最奥部に面しているのが鹿折地区です。
港や水産加工工場とともに住宅が密集しているところでもありましたが、大津波により壊滅的な打撃を被りました。
船舶用の燃料貯蔵タンクから漏れた重油に引火、津波に乗った炎が街を焼き尽くしたその様は自衛隊提供の映像によりTVで長時間放送され、目にされた方も多いかと思います。
上鹿折にある興福寺は鹿折地区の方々の避難所となっていたところです。
もちろん鹿折小学校の子どもたちもこちらに身を寄せていました。
住職の須田玄峰さん、奥さんの祐子さんにお話を聞かせていただけないかとお願いしたところ快諾くださり伺わせていただくこととなりました。
お二方がお話くだされたのは震災当日の鹿折地区やご自身が経験された避難実際、また避難生活の最中なららも胸あたたまる興福寺での被災者の方々、子どもたちの姿でした。
ご住職は発災当時興福寺の本堂におられたそうです。
このところ大きな地震も何度かあったため「またか」と思ったものの、3.11の地震は長らく続き変な揺れであったと。
その時はこんなにも大きな被害になるとは予想だにしなかったと仰っておられました。
その後ご住職は港の様子を見に行かれ、一時は屋根にあがり寄せ波から難を逃れていたそうです。
眼前には鹿折を飲み込み、瓦礫や船まとってすべてを破壊していく津波。
寄せ波から引き波へと切り替わるわずかな間に上鹿折の興福寺に戻られ九死に一生を得られたとのことでした。
奥さんは、震災発生当時は大谷地区にあるはまなす海洋館というところで会議に出席されておられました。
地震が起こるとすぐさま津波警報も鳴り始め、ご一緒されていた鹿折在住の方と急いで避難をされたそうです。
大谷で感じた揺れはすさまじく、まっすぐに立つことは出来ず、止めていた車が海に落ちるのではないかと思われる程の激しい揺れだったと。
興福寺に戻られた奥さんは周りの方々の安否確認や室内様子を確認され、皆無事で物も大した損害はなかったそうです。
同乗していた方をご自宅が心配でしょうからと市内の方まで車を出そうとされたそうですが、津波が迫っていて五分も行かないうちにまたお寺に引き返す事になりました。
もしお寺には向かわず先に同乗者のお住まいの市内まで送っていたら・・・奥さんも命はなかったろうとなんとも言い難い表情で話しておられました。
偶然が生死を分けたしか言えない、非常に緊迫した当時の状況が目に浮かびます。
その後お寺の片付けや、寺社として次の事態へと備えていたところ、鹿折小学校の当時の校長先生が興福寺へ来訪されました。
ここを児童約80人の避難所として受け入れて欲しいとの相談でした。
お二人は子どもたち受け入れることを即決。
一方子供たちは、地震直後は小学校脇の高台にある第一次避難場所に逃れていたようです。
新しくできたばかりの校舎に津波がどんどん押し寄せてきて飲み込まれていく姿を子供たちはじっと見ていました。
その日は午後から雪も降り、先生方は子どもたちブルーシートで囲うことで寒さに耐えておられたそです。
津波に飲まれた街を背に子どもたちは先生方とともに瓦礫等が散乱している荒れ果てた道を三十分位歩いて、自力で興福寺までたどり着きました。
こうして本来は避難所とされてはいなかった興福寺はより安全場所を目指し逃れてきた多くの地域の方も受け入れ一時百数十人あまりの方が寝起きする場になったそうです。
ここまで話を聞いていて痛感しました。
その時自分は暖かい部屋でニュースから目を離さず、その現状をジッと見つめることしかできなかった。
でも鹿折小学校で触れ合ってきた私よりずっとずっと小さい子が私の想像を遥かに上回る苦労や悲しみを体験していたということを事を。
発災当時の話はこのように壮絶なものでした。
震災直後は交通も通信も情報も止まり、非常に不安な日々を送られました。
まず避難された方々人数分の布団をかき集めたら、大部屋で山のような布団の塊が出来上がったそうです。
小学生は80名程、家を無くした方々もおられたので使えるものはなんでもかき集めたそうです。
灯油や食材、水なんかを確保するのに必死で、中には救急車を呼ばねばならない状態の方もいたため、何年分も頭と体をフル回転させたと語られていました。
奥さんも着の身着のままで生活されておられましたそうです。
しかしながら興福寺での暮らしは、非常に忙しくも明るく楽しい印象を受ける様な話ばかりだったように思います。
それでも当時の様子を撮ったアルバムを配ってくださったのですが、そこに写る人々は皆暖かい笑顔をしていて一見被災されている様には見えません。
お寺で過ごしている時も、掃除や洗濯など全て強制はなかったけど、皆一人一人が自主的に取り組んでくれたと奥さんは微笑みながら話されていました。
子供達も奥さんの合掌する姿を横目で見つつ、いつしか一緒に合唱するようになっていました。
鐘つきなんかは子供の楽しみでもあったようで、自然とお寺が身近な存在になっていきました。
奥さんはこのように仰っていました。
「震災は起こるべきものではなかったけど、しかしこのような形で様々な方に巡り会えて、今日までも交流が続いている事は大変有難いです。人と人とが助け合っていくのは本当に素晴らしいことだと思います。この震災で普通に暮らせるという有り難さ、家族という大切な存在、そして命の尊さに改めて気付かされました」
ご住職、奥さんは話されていておつらい部分もあったやもしれません。
それでも非常に貴重なお話を長時間に渡り話していただきました。
それを多くの方に知っていただければと私の記憶力の限り書かせていただきました。
興福寺の須田玄峰様、須田祐子様、お忙しい中大変貴重なお話をお聞かせいただき本当にありがとうございました。
震災に対してまた一つ、考え方や見方が変わりました。
井水 奈々
石川 達哉