旧HP流用

2004年10月 8日 (金)

総持学園創立80周年記念展示 和歌と物語 -鶴見大学図書館貴重書80選-

記念展示と講演会は終了しました。 

総持学園創立80周年記念展示 和歌と物語 --鶴見大学図書館貴重書80選-- 

会  期  平成16年10月8日(金)~31日(日)
開館時間 午前10時~午後6時(土曜日は午後4時30分まで)
       日曜・祭日は閉館、但し大学祭期間中は土曜・日曜とも午前10時~午後6時。
会  場  鶴見大学記念館3階 (神奈川県横浜市鶴見区鶴見2-1-3)
※来場者には「絵はがきセット」を差し上げます。(先着500名様)

 記念展示は、入場者総数 1,612名と、好評のうちに終了しました.。ご来場いただきありがとうございました.。

講演会  「歴史と小説の間」永井路子氏(作家)
日 時  平成16年10月9日(土)午後2時~午後3時(開場午後1時)
会 場  鶴見大学記念館地下2階記念ホール
※来場者には「曽我物語」CD-ROMを差し上げます。(先着100名様)

 講演会は、130名の参加を得て好評のうちに終了しました。台風の中ご来場いただきありがとうございました。

※展示・講演会とも申込不要、入場無料です。
※但し、講演会は先着500名様までとさせていただきます。
※問合せ先:鶴見大学図書館 045-580-8274


 ご講演の後、学長と館長の案内で、永井路子先生も展示をご覧になりました。
 
 


JR京浜東北線鶴見駅から5分。
西口の階段を降りて左の方向へ線路沿いを進むと、総持寺の参道に出ます。参道の左手に、新しく竣工した鶴見大学記念館が見えます。


 

展示略目録

I 歌切と物語切ー珠玉の古典資料ー

1  古今和歌集断簡(伝藤原伊行筆) 平安時代後期写 軸装 1幅
2  風雅和歌集断簡(尊円親王筆)  南北朝時代写 台紙貼 2葉
3  未詳定数歌女房懐紙断簡 金剛院切(伝亀山天皇筆)鎌倉時代末期写 軸装 1幅
4  猿丸太夫集断簡(伝藤原公任筆) 平安時代後期写 軸装 1幅
5  貫之集断簡 村雲切(伝寂然筆) 平安時代末期写 台紙貼 6葉
6  師輔集断簡 春日切(伝平業兼筆)鎌倉時代初期写 軸装 1幅
7  閑谷集断簡(伝寂蓮筆)     鎌倉時代初期写 台紙貼 1葉
8  伊勢物語断簡 越前切(伝吉田兼好筆)南北朝時代写 軸装 1幅
9  源氏物語断簡 薄雲 河内本 (伝藤原為家筆)鎌倉時代中期写 軸装 1幅
10 狭衣物語断簡 巻四(伝阿仏尼筆) 鎌倉時代後期写 軸装 1幅
11 栄花物語断簡 巻二四わかばえ(伝藤原家隆筆)鎌倉時代後期写 台紙貼 1葉
12 異本平家物語断簡 長門切(伝世尊寺行俊筆)鎌倉時代末期写 台紙貼 11葉

II しきしまの道ー勅撰集とその周辺ー

13 古今和歌集 零本 真名・仮名序 鎌倉時代後期写 巻子 1軸   
14 古今和歌集 (伝足利義政筆)  室町時代中期写  列帖装 1冊
15 後撰和歌集 零本        室町時代初期写  列帖装 1冊
16 拾遺和歌集            江戸時代前期写 列帖装 1冊
【参考】拾遺抄断簡 小松切(伝坊門局筆) 鎌倉時代前期写 軸装 1幅
17 後拾遺和歌集 寛永一二年(一六三五)奥書本 江戸時代初期写 袋綴 2冊
18 金葉和歌集 江戸時代初期写  袋綴 1冊
19 詞花和歌集  江戸時代初期写     列帖装 1冊
20 千載和歌集 江戸時代前期写 寛永二〇年奥書本   列帖装 2冊
【参考】千載和歌集断簡 日野切(藤原俊成筆)文治四年(一一八八)頃写 軸装 1幅
21 新古今和歌集 上杉鷹山・伊佐早謙旧蔵 室町時代中期写   袋綴 4冊
22 新古今和歌集 江戸時代中期写       列帖装 3冊   
23 新勅撰和歌集 鎌倉時代末期写  列帖装  2冊
24 続古今和歌集 江戸時代前期写 列帖装 2冊
25 続古今和歌集抜書 室町時代前期写      巻子 1軸
26 続千載和歌集 零本(伝足利義政筆) 室町時代中期写   巻子 1軸
27 新千載和歌集 (伝中山定親・伏見宮貞常親王筆) 列帖装 3冊
28 新拾遺和歌集    江戸時代中期写       列帖装 3冊
29 二十一代集 塗箱入色替表紙本   江戸時代中期写 列帖装 28冊
30 写字台旧蔵十三代集(新勅撰和歌集・新後撰和歌集・玉葉和歌集・新続古今和歌集)  列帖装 6冊
31 古今伝授資料 塗箱入 21冊
32 類字名所和歌集 江戸時代前期写 列帖装 8冊
【参考】類字名所和歌集 巻七 古活字版 元和三年(一六一七)刊  袋綴 1冊

III うたのいろいろー私撰集・歌合などー

33 万葉代匠記序 (契沖自筆) 元禄元年(一六八八)頃写   巻子 1軸
34 拾遺風体和歌集 江戸時代後期写 袋綴 1冊
35 後鳥羽院御自歌合 室町時代前期写    巻子 1軸
36 堀河院艶書合 長享二年(一四八八)奥書本 列帖装 1冊
37 六百番歌合 古活字版    江戸時代初期刊 袋綴 8冊
38 堀河院百首 零本室町時代末期写  列帖装 1冊 
【参考】堀河院百首断簡 (伝甘露寺親長筆)室町時代後期写 台紙貼 1葉
39 白河殿七百首 曼殊院旧蔵 室町時代末期写 袋綴 1冊
40 新撰六帖題和歌       江戸時代前期写   列帖装 6冊
41 為尹千首    江戸時代後期写 袋綴 1冊
42 菅野忠永詠三十首和歌  室町時代後期写 巻子 1軸     
42 俊成卿九十賀和歌 江戸時代中期写 折帖 1冊

IV 個性横溢ー作り物語さまざまー

44 竹取物語 江戸時代前期写 列帖装 1冊
【参考】竹取物語断簡 小六半切(伝後光厳院筆)室町時代初期写 台紙貼 1葉
45 伊勢物語 模藤原定家筆本(伝小堀遠州筆)室町時代後期写 列帖装 1冊
【参考】明月記断簡(藤原定家筆)鎌倉時代前期写 軸装 1幅
46 伊勢物語 (伝飛鳥井雅俊筆) 室町時代後期写  列帖装 1冊
47 伊勢物語  近衛信尹筆 江戸時代初期写  列帖装 1冊
48 大和物語 下  室町時代後期写 袋綴  1冊
49 大和物語 上 古活字版 江戸時代初期刊 袋綴 1冊
【参考】大和物語 慶安元年(一六四八)刊  袋綴 2冊
50 住吉物語 金泥下絵大型本 江戸時代前期写 袋綴 1冊
51 住吉物語 (伝冷泉為綱筆) 江戸時代中期写  列帖装 1冊
52 宇津保物語 俊蔭 奈良絵本 江戸時代前期写 巻子 1軸 
53 宇津保物語 俊蔭 古活字版 江戸時代初期刊 袋綴 2冊
54 源氏物語 須磨 付帚木残簡 (伝冷泉為相筆)鎌倉時代後期写 列帖装 1冊
55 源氏物語 夕顔・紅葉賀・賢木(伝下冷泉持為筆)室町時代初期写 列帖装 3冊
56 源氏物語 桐壺 三条西実隆奥書本 室町時代中期写 列帖装 1冊
57 源氏物語 伝嵯峨本 古活字版 江戸時代初期刊 袋綴 10冊
58 源氏物語 古活字版 江戸時代初期刊 袋綴 54冊
59 源氏物語 蒔絵箱入装飾本 江戸時代中期写 54冊
60 狭衣物語 付系図 江戸時代前期写  列帖装3冊・折帖1冊
【参考】狭衣 奈良絵本 江戸時代前期写 袋綴 3冊
61 狭衣物語 巻七 古活字版 元和九年(一六二三)刊 袋綴 8冊
62 浜松中納言物語 巻二 祖型本 江戸時代初期写 袋綴 1冊
【参考】浜松中納言物語 複写本(松尾聡博士校合)

V 時代を映すー歴史物語と軍記ー

63 栄花物語 絵入抄出本 江戸時代中期刊 袋綴 9冊
【参考】古今和歌集 絵入本 江戸時代中期刊 袋綴 2冊
64 大鏡 江戸時代中期写 列帖装 5冊 
【参考】大鏡断簡(伝尊円親王筆)南北朝時代写 軸装 1幅
65 今鏡 宝永三年(一七〇六)写 袋綴 5冊
66 水鏡 江戸時代前期写 袋綴 1冊
【参考】水鏡 無刊記整版本 袋綴 3冊
67 平家物語 零本 室町時代末期写  袋綴 2冊
68 平家物語 江戸時代前期写  袋綴 12冊
【参考】吾妻鏡 巻四 伏見版 江戸時代初期刊 袋綴 1冊
69 曽我物語 零本 室町時代末期写 袋綴 4冊
70 曽我物語 蒔絵箱入装飾本 江戸時代初期写 12冊
71 大坂物語 絵入 江戸時代前期刊 袋綴 1冊

VI ことばをかたちにー絵画と遊びー

72 源氏物語屏風 桐壺・胡蝶 江戸時代中期作
73 源氏物語絵巻 幽遠斎模写本 天保二年(一八三一)写  巻子 3軸
74 駒競行幸絵巻 狩野養信模写本 文政一一年(一八二八)写 巻子 2軸
75 福富草紙絵巻 田中親美旧蔵 江戸時代末期模写本   巻子 2軸
【参考】田中親美調製 装飾経料紙 巻子 1軸
76 時代不同歌合絵巻   江戸時代末期模写本   巻子 2軸
【参考】三十六歌仙絵短冊帖 貞享(一六八四?一六八八)頃写 折帖 1冊
77 百人一首かるた 塗箱入  江戸時代後期制作 200枚1組
78 源氏物語かるた 塗箱入  江戸時代後期制作 108枚1組
79 源氏物語双六(甲)          江戸時代末期刊 1舗
80 源氏物語双六(乙)付「うちやうの事」 江戸時代後期刊 袋綴28冊1舗
【参考】投扇興

特別展示
永井路子先生原稿            10月8日~16日
対大己五夏闍梨法断簡 道正庵切(道元禅師自筆)  10月18日 ~31日

2003年10月23日 (木)

99 2003/10/23~11/19  古典籍の魅力~ドキュメンテーション学科開設に向けて~

第99回鶴見大学図書館特別展示    
古典籍の魅力~ドキュメンテーション学科開設に向けて~
  横浜市文化財特別公開事業
 平成15年10月23日(木)~11月19日(水)
 図書館 1階展示コーナー  

 2003/10/25  講演会:鎌倉時代書写 和漢朗詠集について  

演者:高田信敬文学部教授・図書館長 

展示場所 鶴見大学図書館 1階ホール展示期間

平成15年10月23日(木)~11月19日(水) 

日曜祝祭日は休館開催時間

平日 9:00~20:00土曜日 9:00~16:00

大学祭期間中の10月25日(土)、26日(日) 9:00~18:00

講演会 日時 10月25日(土) 15:00~16:00 (14:30開場)

場所 鶴見大学図書館地下1階ホール演題 

鎌倉時代書写 和漢朗詠集について演者 

高田信敬(タカダノブタカ)文学部教授・図書館長

会場内では飲食禁止、禁煙です。

共催、後援 鶴見大学紫雲祭、横浜市教育委員会、和歌文学会、紫式部学会

一般公開 講演会、期間中の展示を無料にて一般公開しています。

図書館カウンターにてお名前をご記入ください。

99pos

ここに、本があることの不思議 
      文学部教授 高田信敬
   遙か千三百年の昔、今となっては名も知れぬ、しかし技に優れた写経生がいた。写経は一日中正座の過酷な仕事である。何日も泊まり込み、きめられた枚数をこなす。浄衣は薄く、上司の小言はうるさい。一字でも間違えようものなら即罰金、僅かの報酬から天引きされる。そして墨の中に涙も混じっていそうな、でも仕上がりはあくまで秀麗な写経が生まれた。月日は流れて五百年、丹念に古写経を集める坊さんがいた。一巻また一巻と積み重ね、ついに六百巻全部が揃う。すべての巻に加えられた朱は、自分がこの時代に生きたあかし、とその坊さんには思えた。さらに七百年がたち、鎌倉の剛健な気風も遠く、青丹よし奈良の都のにぎわいは夢と薄れ、六百巻の大半は散逸した。けれども、わたしたちは今、確かに、疑いもなく確かに、彼らの残した五つの巻物を目にしている。手で触れ、書物の匂いをかぐことさえ出来る。あたりまえのようで、なんと不思議なことだろう。横浜市指定文化財の永恩具経だけではない。歌の本、いくさの話、ちょっと難しい漢文まで、すべての古典籍が、人間の命の何倍もの間、この世の移り変わりを静かに眺めてきたのである。そして書物から無限の物語を聞くことは、けっして不可能ではない。    勿論書物は、一般に人間ほどおしゃべりではない。本に語らせ、古典籍の声を正確に聞き取るためには、専門的な技術と知識がいる。いささか耳遠い言葉を使えば「書誌学」が必要なのである。来年ドキュメンテーション学科が開設され、この書誌学を専ら学ぶコースが置かれることを記念して、様々な典籍を展示をする理由のひとつはここにある。書物が存在する、その単純明快な、そして確実なことがらから、大きな意味を引き出す学問体系が、国文学・国語学・歴史学・思想史など人文系諸学に対して果たす役割は大きい。
   と言うややこしい話はさておき、とにかく書物を眺めていただきたい。迫力のある筆跡、目のさめるほどあざやかな挿絵、滋味あふれる装幀、読めばおもしろく、読まなくたって楽しい。これほど奥深く、趣味として格好のいいものが他にあるだろうか、と本好きは思うのだが・・・・・
    平成癸未応鐘下浣
   ※解題は高田が担当したが、本学名誉教授池田利夫博士のお仕事のお世話になったところがある。また、中川博夫(◆18)・山西明(○35・○37)・石澤一志(◆10)各氏にも助力を仰いだ。記して深く謝意を表する。
 
展示内容      展示資料解題ほか○=全期間展示
◇=前期(10月23日~11月1目) ◆=後期(11月4日~11月19目)
1 古写経○ 1 大般若経 巻一七六~一八〇  天福元年(1233)興福寺永恩加点識語    (永恩具経、横浜市指定文化財) 奈良時代写 巻子5軸
○ 2 賢愚経 巻九 大聖武・大和切  奈良時代写 額装1葉
○ 3  金銀交書経断簡(中尊寺経) 平安時代写  軸装1幅
○ 4  対大己五夏闍梨法断簡 道正庵切(道元自筆) 寛元2年(1244)写    額装1葉 画像 
◇ 5  大般若経 巻二三三  永徳3年(1383)大乗寺奉納銀界経     南北朝時代刊 折本1帖
◆ 6 仏制比丘六物図 真乗院了珍跋(五山版)  室町時代中期刊 袋綴1冊 
2 和歌◇ 7 古今和歌集断簡(伝藤原伊行筆) 平安時代後期写 軸装1幅
◆ 8 千載和歌集断簡 日野切(藤原俊成筆) 平安時代末期写 軸装1幅
◇ 9  拾遺和歌集断簡  筑後切(伏見天皇筆) 鎌倉時代後期写 軸装1幅
◆10  風雅和歌集断簡(尊円親王筆 奏覧本) 南北朝時代写 台紙張1葉
◇11  新勅撰和歌集(伝伏見天皇筆)  鎌倉時代末期写  列帖装1冊
◆12  新続古今和歌集(西本願寺旧蔵) 江戸時代前期写 列帖装2冊
○13  万葉代匠記序(契沖自筆稿本)  元禄元年(1668)頃写 巻子1軸
○14  二十巻本歌合断簡 二条切(伝藤原俊忠筆) 平安時代後期写 軸装1幅
◇15  類字名所和歌集  江戸時代前期写 列帖装8冊
◆16  六百番歌合 古活字版  寛永末年刊 袋綴8冊
◇17  俊成九十賀屏風和歌  元禄頃写 折本1冊
◆18  白河殿七百首(曼殊院旧蔵) 江戸時代初期写 袋本1冊
◇19  袖中抄(富岡鉄斎旧蔵)  慶安4年(1651)刊 袋綴20冊
◆20  貫之集断簡 村雲切(伝寂然筆) 平安時代末期写 台紙張1葉
○21  三十六歌仙絵短冊  貞享頃写 折帖1冊 <個人蔵>
○22  和漢朗詠集(伝後京極良経筆、横浜市指定文化財)  鎌倉時代写    巻子2軸 
3 物語 ○23  竹取物語断簡  室町時代初期写 台紙張1葉 <個人蔵>
○24  伊勢物語(近衛信尹筆) 江戸時代初期写 列帖装1冊
○25  伊勢物語(定家筆本の模写本) 室町時代写 列帖装1冊
◇26  宇津保物語(奈良絵本巻子改装) 江戸時代前期写 巻子1軸
◆27  宇津保物語 古活字版  江戸時代初期刊  袋綴2冊
○28  源氏物語(伝二条為相筆) 鎌倉時代末期写 列帖装1冊
◇29  源氏物語抜書(中院通茂筆) 江戸時代中期写 巻子本1軸
◆30  源氏物語 桐壺(三条西実隆奥書) 室町時代後期写 列帖装1冊
◇31  狭衣物語 古活字版  元和9年(1623)刊 袋綴8冊
◆32  浜松中納言物語(祖型本) 江戸時代初期写 袋綴1冊
〈番外〉 源氏物語屏風(大学祭期間中のみ特別展示) 
4 軍記○33  異本平家物語断簡 長門切(伝世尊寺行俊筆) 鎌倉時代末期写    台紙張1葉
○34  平家物語  零本  室町時代末期写 袋綴2冊
○35  曽我物語  江戸時代初期写 袋綴12冊
○36  義経記 零本 古活字版丹緑本  元和寛永中刊 袋綴1冊 <個人蔵>
○37  明徳記(寛永九年版) 寛永9年(1632)刊 袋綴3冊 
5 漢籍○38  文選 古活字版  寛永2年(1625)刊 袋綴31冊
◇39  大慈寺八景詩歌断簡 畠山切(伝二条良基筆) 南北朝時代写    台紙張1葉 <個人蔵>
◆40  風俗通 残簡  元大徳9年(1305)刊 粘葉装1冊
○41  白氏文集 銅活字版  明正徳8年(1513)刊 袋綴24冊 

解題 

I 古写経 

○ 1 大般若経    巻一七六~一八〇    天福元年(1233)  興福寺永恩加点識語  (永恩具経、横浜市指定文化財)  奈良時代写 巻子5軸

99_1


○ 1 大般若経 巻一七六~一八〇 天福元年(1233)興福寺永恩加点識語(永恩具経、横浜市指定文化財)       奈良時代写 巻子5軸

   紙高25.3糎の黄麻紙を継ぐ。この写経は永恩具経と呼ばれ、興福寺の蔵司永恩が、鎌倉時代前期の貞永・天福(1232~33)前後、かねて蒐集していた天平書写大般若経600巻に、全巻にわたって朱の句点を施し、一具として自らの氏神である河内国玉祖神社に奉納したもの。神仏分離に際して薗光寺竹之坊に引き取られたことなど、田中塊堂『古写経綜鑒』に詳しい。巻子本を一時折本に改装した形跡を見るが、現在再び濃朽葉色紙表紙と撥型木軸の原装風な巻子本に戻されている。同じ永恩具経の中には、天平の書写奥書を残す巻々があり、『一誠堂創業九十周年記念即売会目録』筆頭にある巻第一八には「天平十三年(742)歳次辛巳七月十八日奉為四恩 写檀越/下村主広麻呂」と見える。本学所蔵の5軸すべてにも朱の句点があり、巻一七六より一七九までには巻末に朱で「句切了永恩」と記されるのみだが、巻一八〇には同じく朱書で、「天福元年癸巳五月廿六日興福寺上階馬道以朱(?)為第二伝(?)句切了 永恩生年六十七」とある。こうした加点奥書は10巻ごとに記すのを原則としたらしいが、巻五九一には「貞永二年癸巳」の朱書があったという。貞永2年(1233)は4月15日に天福に改元されているので、永恩の加点が巻序に従ったのでないことを知る。永恩具経は40巻ほどの遺存が確認され、天平経特有の雄渾にして秀麗な書法は見事であり、特に5巻が連続して揃っているのは極めて貴重である。

○ 2 賢愚経 巻九 大聖武・大和切  奈良時代写 額装1葉
 縦27.4、横7.8糎の香抹を漉き込んだ具引き料紙(所謂荼毘紙)に独特の写経体で賢愚経巻九善事太子入海品第三七を3行書写。写経は1行17字を定式とするが、聖武天皇を伝称筆者とする掲出の断簡では各行13字、その堂々たる書きぶりが異彩を放つ。「大聖武」と呼ばれるゆえんである。古筆手鑑にはこれを巻頭に押すのが故実。

○ 3  金銀交書経断簡(中尊寺経) 平安時代写  軸装1幅
 縦25.6、横50.2糎の紺紙に銀界(界高19.5、界幅約1.8糎)を施し、金銀泥にて交互に28行を書写した装飾経。紺紙に金泥または銀泥で経文を写した装飾経は、勿論断簡零墨と言えども確かに貴重であるが、必ずしも珍しくはない。しかし金銀交書経となると非常に少なく、単独に法華経・阿弥陀経を書写した例が二三知られ、組織的に金銀交書で大部の内典を写したものに至っては、中尊寺建立に当たり藤原清衡(1056~1128)が発願した所謂「中尊寺経」くらいであろう。掲出の断簡は、内容から密教部経典と推されるが、陀羅尼集経中に類似の文言をみるものの、確実な経題を特定出来なかった。仏典に詳しい方の教示を乞うところである。 桐箱入り、田中塊堂(1896~1976)の箱書「紺紙金銀交書経中尊寺経断巻」(蓋表)、「浪華法眼 塊堂題〔朱白文印〕」(蓋裏)。塊堂は古写経・古筆の先駆的研究者として多くの業績を残し、また仮名書家としても著名であった。

○ 4  対大己五夏闍梨法断簡 道正庵切(道元自筆) 寛元2年(1244)写 額装1葉
 対大己法と呼ばれる著述の自筆原本であり、現存6葉のうち、本学に2葉を蔵す。道元禅師が定めた『永平大清規』第二篇として書かれ、修行僧の、大己(先輩僧侶)に対する礼法を、日常の起居振舞に即して、62条にわたり説示されたものである。この断簡が道正庵切と呼ばれるのは、道元に随侍した俗弟子の木下道正が、帰国後京に薬舗を構えた庵(現在の京都市上京区道正町)に所蔵されていたとの伝えによるが、勿論定かではない。本書巻末識語に当る断簡が出光美術館蔵国宝手鑑『見ぬ世の友』に収められ、「于時日本寛元二年甲辰三月二十一日」なる年記と「道元(花押)」と署名までも見られるので、同じく自署を有する永平寺蔵国宝『普観坐禅儀』と並び、極めて稀な道元真筆墨跡の中で、自筆か否かを鑑定する上での根本真跡資料となっている。道元45歳、壮年期の筆である。 縦23.9、横14.4糎、斐紙の一面に白界6行を施し、第二四末より第二八までを記す。京都国立博物館所蔵国宝手鑑『藻塩草』所収の切の裏面。気迫の漲る道元の、典雅のうちに圭角を備え、鋭利、透徹、清澄の風韻漂う筆法。 

99_4_2


◇ 5  大般若経   巻二三三  永徳3年(1383)    大乗寺奉納銀界経  南北朝時代刊     折本1帖

99_5


◇ 5  大般若経 巻二三三  永徳3年(1383)大乗寺奉納銀界経  南北朝時代刊 折本1帖
 縦26.1、横9.4糎の折本、全52折。香色地に金銀切箔・霞引を施した表紙、その中央に「三百内四帙三」と墨書。後表紙長くして全体を包み込む帙型折本の形を原装のままに伝える。帙表に「大般若波羅蜜多経巻第二百三十三」と打ち付け書き、発装あるも紐を失う。見返しに「春翠文庫」(中島仁之助)の朱文印。 巻首に十六善神と釈迦説法の見返し絵、大量の経巻を背負うのは玄奘三蔵である。全巻に銀界を加え、装飾性を高めた摺経中の逸品。素朴で力強い書風を用いた春日版風の出版、尾題下に「開板明隆」と刻すが、他の部分と比べ墨付き悪く、埋木の可能性を否定しえない。やや摺り疲れのある版面ゆえ、本文刻成自体は南北朝の早い頃までさかのぼるか。 巻首に「池奥常住」、尾に「願主比丘尼宗室」「時永徳癸亥夏六月念八日也」「奉入大般若経 大乗寺」等の墨書あって永徳3年(1383)の奉納と知られる。

◆ 6 仏制比丘六物図 真乗院了珍跋(五山版)  室町時代中期刊 袋綴1冊
 縦27.8、横18.7糎の後補藍色無地紙表紙、外題なし。やや厚手の楮紙に毎半葉7行17字の力強い書風で印刷。図6面、版心に丁付「一(?二十九)」、ただし巻頭に丁付を持たない2丁があるので、全31丁。最終丁ウラに「此図印板」以下4行の了珍識語、その後に「板在南禅真乗院」と刻す。寛元4年(1246)泉涌寺にて出版された覆宋刊本が使用に耐えなくなったので、南禅寺真乗院の了珍が再刊を企てたものである。真乗院は大応派香林宗簡の塔頭。大東急記念文庫本の書入れから、明応4年(1495)以前の刻成と知りうるが、摺刷はいささか下り、室町時代末期であろうか。 六物とは僧侶必備の具六種を指し、律蔵にのべられたところを図で解説した書。古雅な味わいの五山版である。なお巻首の蔵書印は、近代篆刻の名手河合筌廬の作、新町三井家にあって古典籍を愛好した三井高堅の所用。これも書物の魅力のひとつと言えよう。
 II 和歌

◇ 7 古今和歌集断簡(伝藤原伊行筆) 平安時代後期写 軸装1幅
 金箔散らし斐紙。縦21.2、横13.8糎。手沢の状態から見て、列帖装丁ウラ面か。巻五秋下293・294を1面5行に写した典雅な古筆。 畠山牛庵および古筆了任の極札を添え、いずれも藤原伊行(?~1175)の手とするが、伊行筆跡たる戊辰切・葦手下絵和漢朗詠集と比較して明らかに別筆、むしろ伊行より若干古い、しかも相当な書き手のものではなかろうか。品のよい装飾料紙と行間をゆったりとった名筆ぶり、伝藤原公任筆公忠集切と料紙・筆跡共に似るが、現在のところツレは管見に及ばない。博雅の君子の垂教を乞う。

◆ 8 千載和歌集断簡 日野切(藤原俊成筆) 平安時代末期写 軸装1幅
 縦21.5、横14.8糎の斐紙。料紙欠損少々あって綴穴を確認しにくいが、列帖装の丁オモテ面か。巻一九釈教1235~1237を写し、第二首目「あか□き」は料紙の欠損。 藤原俊成(1114~1204)の古筆切中、自ら撰した千載集の断簡ゆえにひときわ珍重される。現在巻一〇以下のみが存し、上下二帖のうち下帖分の分割。『明月記』天福元年(1233)7月30日の「家本之下帖」と関係あるか。1帖140丁ほどと推定(田村悦子「藤原俊成自筆千載集断簡日野切の考察とその集成」『美術研究』233)され、その半分程度が発見されている。烏丸光広(1579~1638)識語を持つ切や冷泉為頼(1572~1627)の箱書ある資料も見え、江戸初期にはすでに断簡となっていた。切名称は日野家伝来たることによるか。 千載集成立を序文にしたがって文治3年(1187)とすれば、俊成七〇代以降の老筆となるが、鋭い転折やよどみない墨痕は、源平動乱の世を生きぬいた巨匠にふさわしい迫力に満ちている。日野切は、その書写形態から千載集の草稿ではなく、一種の撰者手控本と判断され、掲出の切にはないが作者名に細字注を付す例など、撰者自筆資料であるだけに注目すべき点が多い。 二重箱入。内箱蓋表に「日野切 おとろかぬ」、蓋裏に「藤原俊成卿 義〔花押〕」と墨書するのは吉沢義則(1876~1954)の手。古筆本家の極札「五条三位俊成卿おとろかぬ〔琴山〕」を脇に貼る。

◇ 9  拾遺和歌集断簡  筑後切(伏見天皇筆) 鎌倉時代後期写 軸装1幅
 縦27.9、横9.1糎の藍内曇斐紙。ツレが巻子本として存し、原態は明か。しかし多くの切に折り目が見られ、一時期折本となっていたらしい。また仏典が裏文字で写っている資料もあって、伝来過程に多くの問題を残す。 歌人として、また能書家として聞えた伏見天皇(1265~1317)の筆跡、広沢切と共に古くより喧伝される。筑後切は古今・後撰・拾遺の三代集を気品高い内曇料紙60巻に書写したもので、一巻分完全に残る後撰集巻二〇末に「永仁二年(1294)十一月五日書訖」とあり、天皇30歳の筆と判明する。古今集の場合は巻一八の零本が、後撰集には前述の如く巻二〇の完本が伝存、しかし拾遺集では巻一六の9首分が1軸としてまとまるのみ(徳川美術館)で、あとはすべて断簡。ゆったりと温雅な書風で歌1首3行書写を定式とし、稀に後人が下絵を描き入れたものも存する。 掲出の切は巻二〇1311、左端に折り目の跡が残る。拾遺集には巻末本奥書部分が伝えられており(たかまつ帖)、貞応元年(1222)9月7日藤原定家(1162~1241)の校訂書写した系統であることになる。貞応元年九月七日本は、従来知られていなかった系統で、伏見天皇による若干の取捨改変も想定される(杉谷寿郎「拾遺集定家本貞応元年九月七日書写本考」『語文』78)。古筆了?(1645~1701)の極札を付し、その裏面に「切歌一首丁丑七」とあるのは元禄10年(1697)丁丑七月の謂。

◆10  風雅和歌集断簡(尊円親王筆 奏覧本) 南北朝時代写 台紙張1葉
 縦27.3、横12.1糎の藍内曇斐紙に和歌1首2行書き。巻八冬726(下句)~727(上句)をゆったりとした格調高い書風で写す。本学には掲出の断簡に直接続く横幅11.9糎のツレを所蔵する。伝称筆者は伏見院だが、青蓮院尊円入道親王(1298~1356)の筆跡と確認され、17番目の勅撰集風雅和歌集の奏覧本を分割したものである。元来は巻子本、ツレは徳川美術館蔵手鑑『水茎』に1葉、林家旧蔵手鑑に1葉が報告される。断簡とは言え、奏覧本の原本としてきわめて貴重。

◇11  新勅撰和歌集(伝伏見天皇筆)  鎌倉時代末期写  列帖装1冊
 全二〇巻を上下に分写する勅撰集の通例にしたがった上冊10巻分。浅縹地に瑞雲を織り出した金襴表紙は、銀切箔を密に蒔いた見返しと共に後補。縦23.6、横15.3糎。外題なし。内題は「新勅撰和歌集」。本文料紙、斐紙。毎半葉9行歌1首2行書、書入なし。墨付139丁。巻一春上46番歌二行分削去の跡あり、その理由不明。 藤原定家撰。寛喜2年(1230)に撰進の企てがあり、天災に加え承久の乱や天福2年(1234)仮奏覧の直後後堀河院崩御、定家の草稿焼却などがあり、成立過程はかなり複雑である。文暦2年(1235)完成。新古今風の妖艶な歌は減少し、かわって平淡優美の詠が多い。幕府関係者に配慮してかなりの数を入集させ、宇治川集の異名を持つ。 この集は成立過程を反映して草稿本第一類から精撰本第四類に分たれ、それらのうち第四類に属し、特に定家自筆本の模本と相近い。掲出本を収める箱の蓋裏に「新勅撰上 後伏見院御筆」と墨書するが、識語・極札・折紙の類なく何によってかく記したか不明。書風はたしかに鎌倉末期の伏見院流に棹さすものである。

◆12  新続古今和歌集(西本願寺旧蔵) 江戸時代前期写 列帖装2冊
 縦24.9、横17.8糎の金銀装飾梨地紙表紙。左肩に藍曇紙題箋(縦15.6、横3.3糎)を押し、「新続古今和歌集上(下)」と墨書、本文と似るが別筆らしく、おそらくは飛鳥井雅章(1611~1679)の手。本文共紙見返し。布目の強い上質斐紙を用い、毎半葉9(序)・10行(本文)に書写、和歌1首1行書、全巻一筆。下巻末に文明11年(1479)沙弥栄雅の本奥書。栄雅は新続古今和歌集撰者飛鳥井雅世(1390~1452)の長男雅親(1417~1490)の法名であり、奥書中に「亡父撰進中書之本」の文言が見え、掲出本は後述する如く飛鳥井家において調えられたと判断されるので、筋のよい伝本と言える。巻首に「写字台之蔵書」、尾に「紫藤華下書窓」の朱文印あり。前者は浄土真宗本願寺派本山西本願寺門主の旧蔵たることを示し、後者は飛鳥井家の所用か。 飛鳥井雅章は二十一代集の全てを自ら写しており(書陵部508・208)、掲出本は副本として雅章側近の書写したものであろう。他にツレとして新勅撰和歌集・新後撰和歌集・玉葉和歌集を蔵する。 

○13  万葉代匠記序(契沖自筆稿本)  元禄元年(1668)頃写 巻子1軸
 白茶色桐葉織文薄絹表紙。見返し、金銀砂子撒き。外題なく、内題「上水戸源相公萬葉代匠記序」。紙高29.9糎、横97.3糎の長大な楮紙。 契沖が万葉代匠記(以下「代匠記」と略称)を完成させるまでの経緯は、①徳川光圀の下河辺長流への万葉注釈書作成依頼、②長流の着手と発病、③長流の推輓により契沖へ改めて水戸側より委嘱、④契沖の起稿、⑤長流死去、⑥代匠記初稿本の成立と献上、⑦光圀の不満と改稿の要請、⑧改稿した精撰本の成立と献上、の順に考えられてきたが、再吟味の結果、④は①をも遡る(池田利夫「万葉代匠記の起筆年次」『文学』昭和54年7月)。つまり長流と契沖とはそれぞれに万葉注釈に励んでいて、契沖(1640~1701)は、長流(1624~1688)発病のあと、先の③⑤~⑧の順に推移したのであり、この代匠記序は?に際しての光圀(1628~1700)への献上書。当然に水戸側に渡った筈であるが、現在、円珠庵に一通とこの一通が、それぞれ自筆本として遺る。水戸側の学者安藤為章(1659~1716)の『年山紀聞』に「元禄はじめのころの作」とある。序の内容は、同文の円珠庵本が岩波版『契沖全集』第一巻に全文翻刻されているが、これは紙高23.8糎なので、掲出本よりやや小さい。注目すべきは、円珠庵本が既に契沖仮名遣で書かれているのに、本書は「すくなきをおきて→をきて」「しほたれぬれとも→しをたれ」などと定家仮名遣に書かれていることである。初稿本代匠記の原本は戦災でほとんど焼失したが、朝日版全集によって、仮名遣が移行していく過程を見ることができるので、円珠庵本と比較して本書の方が前段階を示している。池田利夫氏旧蔵の寄贈本。なお、精撰本序は漢文で書かれているが、自筆序文は伝わらない。

○14  二十巻本歌合断簡 二条切(伝藤原俊忠筆) 平安時代後期写 軸装1幅
 楮紙。縦25.9、横15.6糎。高さ22.4、幅2.6糎ほどの淡墨界を施し、紙面中央下部に「財」朱印の痕跡がわずかに残る。 源雅実(1059~1127)を中心とし、大治元年(1126)頃まで編集が続けられたと推される類聚歌合の原本で、左側6行分は寛平5年(893)以前成立寛平御時后宮歌合161・162、右側2行は天元4年(981)4月26日小野宮右衛門督家歌合11の判詞と12の上句。二つの歌合断簡を寄びツギしたものである。萩谷朴『平安朝歌合大成』にいずれも田中家蔵として紹介。 二十巻本歌合は数筆の寄り合い書き草稿本と思われ、伝藤原忠家(1033~1091)筆柏木切、掲出の切のように俊忠(1073~1123)筆と伝称される二条切、その他伊丹切の名もある。忠家・俊忠とも、俊成・定家につながる歌の家の祖として筆者にとりあげられたのであろう。

◇15  類字名所和歌集    江戸時代前期写 列帖装8冊

99_15


◇15  類字名所和歌集  江戸時代前期写 列帖装8冊
 紺地に金泥にて秋草・土坡を描き、霞引を施した縦24.2、横17.2糎の豪華な原表紙、押発装あり。左肩に縹色地金泥下絵題簽(縦16.2、横2.3糎)を貼り、「類字名寄一(~八)」と墨書。紗綾形文の金紙見返しがあって各冊巻頭に目録を分載する。首題「類字名所和歌巻第一(~八)」、毎半葉10行和歌1首2行書きを原則とするが、稀に1首1行に写す。歌上方に集付、下方に作者名を記す尋常の名所和歌集である。料紙は精良な斐紙、奥書を欠くが書風・装訂等から見て江戸前期の嫁入本であろう。 元和3年(1617)刊の古活字版を最古伝本とする類字名所和歌集は、通常本文7巻全8821首の大規模編著であるが、掲出本はこれを抄出縮小、具体的に第一巻を比べると、元和本1034首から掲出本は332首のみを残す。そして第六巻相当分を嵐山~紀伊海、弓槻嵩~白河に分冊し、都合8巻に仕立てたもの。おそらくは杉田勘兵衛刊の整版本あたりが底本であろう。

◆16  六百番歌合 古活字版  寛永末年刊 袋綴8冊
 縦27.3、横18.3糎の藍地紙表紙。痛みあって補修、模様はわかりづらいが雷文に蓮華唐草の艶刷りか。左肩に楮素紙題簽(縦16.8、横3.7糎)を押し、「六百番歌合一(~八)」と刷る。古活字版の原題簽が全冊に残っているのは、それほど例が多くない。内題「左大将家六百番歌合巻一(~八)」(巻首)、刊記なし。毎半葉12行26字程度、印刷面縦22.0、横15.2糎。連続活字を使用、やや小ぶりの文字主体に構成した版面は、寛永(1624~1644)後半の特徴を示す。古活字版六百番歌合には、11行本・「寛永十七年九月吉辰」の刊記を持つ12行本・掲出本すなわち無刊記12行本の3種があり、川瀬一馬『増補古活字版之研究』は、掲出本の如き12行本を寛永17年(1640)後間もなくの出版と見ている。 六百番歌合は建久3年(1192)冬頃から計画され、藤原俊成(◆8参照)の判詞も加えて同5年には完成していたらしく、主催者後京極良経(1169~1203)の名をとって、当時は左大将家六百番歌合と呼んだ。100題600番1200首の大規模歌合で、良経以下藤原定家(1162~1241)・慈円(1155~1225)・寂蓮(?~1202)・顕昭(?1182~1219?)ら有力歌人が参加し、左方寂蓮と右方顕昭の論争・俊成の判詞など歌学史上の意義も大きい。「源氏見ざる歌よみは遺恨の事也」と俊成が言挙げしたのは、この折のことである。諸本間に大きな揺れはない。 掲出本は補修こそあるものの原表紙・原題簽をとどめ、印刷鮮明な古活字版として貴重。

◇17  俊成九十賀屏風和歌  元禄頃写 折本1冊
 縦25.0、横21.7糎の茶地龍文金襴表紙、押発装あり。中央に金泥下絵の絹地題箋を貼り、「俊成卿九十賀屏風和哥」と墨書、別添折紙によれば青蓮院宮尊証親王(1651~1694)の筆。金箔散らしに桜・牡丹・紅葉等を描いた美麗な見返しを備え、本紙全6折。 12枚の色紙は、藍吹墨模様に金泥下絵を加え、金・赤・紺等で細く縁どる。檀紙の折紙が付き、妙法院宮堯恕親王・有栖川宮幸仁親王・右大臣近衛家煕ら宮廷最上級の人名を列挙する。他の資料と比較して、その所伝はほぼ信ずべきものであろう。筆者中では烏丸光雄が元禄3年(1690)に没しており、他の人々はその後の薨去であるから、元禄初年までに揮毫されていたことになる。ただし折紙は家煕に「右大臣」を注記するので、任右大臣の元禄6年以降の鑑定。 皇族・公卿の分担書写した色紙・短冊の類は必ずしも珍しくないが、三十六歌仙絵短冊帖(○21)と比べてはるかに高い身分の人々を揃え、特殊な注文に応じたものであろうと推される。巻末の「雪」は江戸時代屈指の能書近衛家煕(1667~1736)の若々しい筆跡  仮に元禄元年書写とすれば22歳 と推される。  なお本文は、源家長日記から建仁3年(1203)11月23日に催された藤原俊成九十賀の屏風歌の部分を抄出したもの、ほとんど第三類流布本に一致するが、わずかに第一類古形本に近づくところもある。

◆18  白河殿七百首(曼殊院旧蔵) 江戸時代初期写 袋本1冊
 縦28.5、横19.0糎の表紙左肩に「禅林寺殿七百首」と打付外題。内題なく、扉に「出題」として各題者名を記す。簾目の強い香色斐紙を用い、毎半葉10行、和歌1首1行に書写。字高約23.0糎。巻頭に「曼殊院之印」の朱文印を押す。白河殿七百首(禅林寺殿七百首)は、続古今和歌集撰定に向けて動く歌壇の中で、文永2年(1265)7月7日後嵯峨院が白河殿にて主催した当座探題歌会。掲出本は3類に整理される伝本のうち、第?類精撰本に属し(井上宗雄「白河殿七百首の基礎的考察ー伝本と成立を中心にー」『和歌文学研究』47)、その中でも特に「最も純粋の方向にある」として新編国歌大観底本に用いられた内閣文庫本(201・275)に細部までほぼ一致する。曼殊院の旧蔵と併せて、諸本中注目される一本である。

◇19  袖中抄(富岡鉄斎旧蔵)  慶安4年(1651)刊 袋綴20冊
 縦27.3、横19.0糎の藍色無地紙表紙、押発装あり。左肩に子持枠(縦17.9、横3.5糎)題簽を張り「袖中抄一(~廿終)」と刷る。原表紙・原題簽の風格ある典籍。本文四周単辺(縦20.7、横15.3糎)、毎半葉10行20字程度、注1字下げ。版心文字なし。第一冊巻首に「鉄老斎」の大型朱文印と「富岡百錬」の朱白文印、いずれも富岡鉄斎(1836~1924)の所用。他の印については未勘。 寿永2年(1183)以前一旦まとめられた初撰本(顕秘抄)3巻を増補、文治年間(1185~1190)にまとめなおした再撰本が袖中抄であり、多数の先行歌学書を引用した実証的な歌語注解辞典。顕昭の著述中後代への影響が大きいものの一つ。 袖中抄の版本は、20巻を合冊して5・6・10冊等の形にまとめた例も多いが、掲出本は1巻1冊仕立ての20冊本、最終巻末尾に天文22年(1553)正月の山科言継(1507~1579)の奥書を模刻し、次に「右此袖中抄者、古来和歌/道之奥秘」以下の刊語、さらに子持枠(縦6.8、横2.2糎)刊記「慶安四暦初秋/丸屋庄三郎」。ただし版面から判断して慶安4年(1651)の刊刻ではあり得ても、摺刷はやや下る。江戸時代中期にも袖中抄は摺られて(正徳5年の書籍目録大全あたりが最後か)おり、掲出本は、同じく慶安4年の年紀を持つ林甚右衛門の入木改刻したものであろう。なお書誌学上おもしろいのは丁付の様式で、ノドの部分丁のオモテ・ウラ面の両様あるが、1丁の上下2個所天地逆の丁付が見られることである。しかも丁付の数字が実際の丁と対応せず、いかなる理由でこのような丁付を刻したのか不明。しかし珍しい例と言えよう。

◆20  貫之集断簡 村雲切(伝寂然筆) 平安時代末期写 台紙張1葉
 縦16.7、横11.0糎の金銀箔散らし斐紙を切箔料紙にて縁取り。冷泉家時雨亭文庫に15葉を継いだ1巻(重要文化財)が伝存する。歌仙歌集で示せば110~112番歌を写し、和歌1首2行書き詞書2字下げ、右端若干が切られており、原態は縦17.0、横14.0糎程度の粘葉装冊子本。そのほぼ半丁分に相当し、「寂然法師(細字「はなのいろは/こたかた(ママ)りに/書入/定家卿」)」と記した古筆本家了栄(1601~1678)の極札を付す。その裏に「はなのいろは砂子 丁巳九」とあり、延宝5年(1677)の鑑定と思われる。 奇僻のある、しかし自在な筆跡は寂然(俗名藤原頼業、?~1182)の手と伝称され、2行目「はきの」を「はなの」等と訂正した太字は、極め通り藤原定家(1162~1241)の筆。書写年代の古さと書入れの筋のよさから本文資料として評価が高く、定家の校訂の結果が歌仙歌集本諸本の祖となったと考えられている(杉谷寿郎『平安私家集研究』第一篇)。現在70葉ほどが知られ、本学は掲出の切の他に5葉を蔵し、冷泉家時雨亭文庫本に次ぐまとまりをなす。以下に他の断簡の内容を示しておく。61~62(詞書)、582、614~617、687・688(詞書)、784・785。 

○21  三十六歌仙絵短冊      貞享頃写 折帖1冊 <個人蔵>

99_21


○21  三十六歌仙絵短冊  貞享頃写 折帖1冊 <個人蔵>
 縦40.7、横17.3糎の緞子表紙。中央に金紙縁取り絹地題簽を押すも、外題記入せず。金揉箔散らしの厚手料紙10折20面、首尾計2面を除く各面に2枚あて絹地短冊(縦37.3、横5.8糎)36枚を張る。それぞれの短冊右肩に花山院内大臣定誠以下大炊御門前内大臣経光までの筆者名を記した小紙片あり。他の筆跡資料と比較して、その人名比定は正確であると思われる。 筆者のうち最も早く亡くなったのは正親町三条実久(1656~1695)であり、ゆえに揮毫の下限を元禄8年に置きうるし、さらに小紙片の官位を信ずれば、貞享元年(1684、園基福の辞大納言)以降、同4年(愛宕通福の任中納言)以前の調製。 宮廷最上級とは言いがたいものの、江戸前期の公卿達の筆跡を一覧するのに便利な短冊帖であり、何よりその精緻華麗な歌仙絵が印象深い。一人一人の面貌を描きわけ、丁寧に衣裳を塗り込めるその技と丹念さは、絵師の腕のみならず注文者の熱の入れ方までをも伝えているが如くである。特に女性像の出来がすばらしい。

○22  和漢朗詠集(伝後京極良経筆、横浜市指定文化財)  鎌倉時代写 巻子2軸
 金茶色に金銀にて樹木を織り出したモール表紙。紙高30.2糎。見返し、金銀切箔・霞引き斐紙。外題なし。内題、上巻は首部に破損欠脱あって不明。下巻に「和漢朗詠集下 雑」。本文料紙、斐楮混漉。紙幅48糎程度のものを38紙(上巻)、51糎程度のものを36紙(下巻)継ぎ、各々礼紙一葉を介して牙軸に付く。総裏打を施し、紙背継ぎ目に楕円の墨印が合縫として押されるも、印文不能読。 天地に淡墨界(界高25.9糎)、縦罫はなく、漢詩1行14字ほど、和歌1首2行書。上巻では和歌の2行目を1字もしくは2字下げとする所が多い。なお和歌2行は各々上下句に対応するのが原則ながら、子日32「千とせまてかきれるまつもけふ/よりはきみにひかれよろつよやへん」の如く、改行と句切れの一致しないところもある。これは鎌倉時代の早い頃までに多く見られる書写様式で、掲出本の製作時期推定に一つの手がかりを与えるであろう。奥書なし。 上巻のすべてと下巻冒頭に朱墨の書入あり。朱はかなり詳細で紀伝点、菅家の訓を伝えるか。墨は声点( ○ 、 ○○ )・返点・作者名および詩題の注記(子日33まで存)・片仮名傍訓少々、それらにはすくなくとも二手が認められる。本文を検するに、重出(立春3の次に霞78を置く)・歌序の異動(草441・442・440、無常796・798・797)・増加(竹436の前に「よにふれば」の歌1首、遊女724の次に「家交江河南北岸」の詩句)のほか、字句の異同若干。堀部正二『校異和漢朗詠集』紹介の世尊寺行尹本・嘉暦本に近いか。元来上巻の初めに総目録を置き、下巻は直接本文に入る形式であったと思われ、上下巻で字の大小・料紙の長短等はあるものの、全巻一筆の写。伝称筆者後京極良経(1169~1206)の手では無論ないが、後京極流の力強い名筆と言えよう。 古筆家初代了佐(1572~1663)の折紙あり。その文言に「己上/這 和漢朗詠集上下者/後京極良経公御真跡/無紛者也 応御所望/証之而已/承応二暦三月上旬古筆了佐〔琴山〕(花押)/打它十右衛門殿」と見え、宛所の「打它十右衛門」とは糸屋と号した江戸時代初期京の豪商打它公軌のこと。彼は松永貞徳門下で、木下長嘯子(1571~1653)や蒔絵師山本春正らとも交渉があった。 旧蔵者打它公軌と同時代の如く思われる贅沢な印籠蓋造蒔絵箱に収め、書の風格・訓点の資料性・旧蔵者を特定しうる折紙などと相俟って典籍の魅力を高めている。

 III 物語

○23  竹取物語断簡  室町時代初期写 台紙張1葉 <個人蔵>
 縦9.7、横9.7糎の斐紙。毎半葉9行17字程度の小型列帖装冊子本を分割したもの。二条為定(1290~1360)の筆と極められることもあるが、通常掲出の切のように後光厳院(1338~1374)を伝称筆者とする。 「物語のいできはじめのおや」として長い享受の歴史を持ながらも、竹取物語は古写本に恵まれず、天正20年(1592)中院通勝識語のある武藤本、無奥書だが永禄・天正頃の写しかとされる吉田本、それにこの伝後光厳院筆小六半切の他には、ほとんど中世に遡る伝本を見ない。何より竹取物語最古の伝本資料である点、貴重視されるものだが、本文の特異さもまた注目に値する。竹取物語はごく少数の古本系伝本と近世以降圧倒的に多数を占める通行本系とに分けられてきた。しかしながら現在判明する古筆切9葉を通覧してみれば、古本系と近い部分を持ちつつも全体としては通行本も含めた現存諸本のすべてと対立する傾向にある。書写年代の古さ、伝本研究上の重要性、存在数の少なさ等いずれの点からも、愛らしいこの切が持つ意味は大きい。

○24  伊勢物語(近衛信尹筆) 江戸時代初期写 列帖装1冊
 縦30.3、横20.3糎の大ぶりな藍色紙表紙に、菱渦繋ぎ地牡丹散らしの艶刷り。白緑色地に金泥と墨で草花と松を描いた題簽を中央に押し、「伊勢物語」。本文料紙、厚手斐紙。 折紙や極札の類はないが、その筆跡、後述の書写態度などより見て、三藐院近衛信尹(1565~1614)の真筆、念のため陽明文庫の名和修氏に観て頂いた。信尹は近衛家の嫡男として早く左大臣になったが、奇行が多く、豊臣秀吉に関白を奪われた上に勅勘をも蒙って、遂に3年間、薩摩の坊津に配流された。才気煥発な気質は書風にもあらわれ、帰京後は関白に返り咲いて、書への声望も高く、近衛流の祖ともなった。光悦、松花堂昭乗とともに寛永の三筆とたたえられるが、寛永年間は信尹没後10年に当る。毎半葉10行書写、歌は2字下げ2行書きであるが、最後の辞世の歌は散らし書き風に写す。勘物は一切ないが、根源奥書と武田本奥書とを雄渾な文字で写し、末に「右両本奥追書加之畢」と記す。いわゆる根源本と武田本とが併存している認識があってのことで、あるいは親本は無奥書本であったか。本文は武田本に近いが、根源本の中では千葉本・七海本などと親近性を持っている。 伊勢物語は、各段が「むかし男ありけり」で始まるのを原則とするが、繰り返される「むかしおとこ」の単調さを避けるため、最初は「むかし男」と写し、次第に「無閑止於止古」「武迦止雄登孤」「舞我視オトコ」「六香子於東虚」「夢可志おとこ」など、戯れ書きの真仮名で闊達に書く。

○25  伊勢物語(定家筆本の模写本) 室町時代写 列帖装1冊
 縦17.5、横17.9糎の藍色唐草文緞子表紙。見返し、金砂子撒き、金泥桜小紋散らし。外題・内題・奥書・巻末勘物なし。但し、本文行間勘物・集付あり。本文料紙、斐紙。毎半葉8行?12行書写。和歌は改行約1字下げ2行書き。付属文書、折紙1枚。「伊勢物語六半本全一冊、右、小堀遠州政一筆 証札別有之。代金子五両。神田道伴(印) 癸丑臘月上旬」とあり、別に、道伴の極札。享保18年(1733)12月の鑑定であろう。 小堀遠州は秀吉・家康はじめ、三代将軍家光にまで、作事奉行や茶道師範として仕えたが、定家様の文字を能くしたことでも知られ、内閣文庫には「政一」の自署と、小判形印鑑を捺した遠州真筆の伊勢物語が所蔵され、天福本奥書や勘物を備えているが、天福本原本を臨模したという三条西実隆筆本・冷泉為和筆本に共通する字詰とは全く異なり、毎半葉10行に見事な定家様で端正に写されている。それに対し、掲出の伝遠州筆本は、右の内閣文庫蔵本と全く異質な筆跡であり、小堀遠州の手ではなく、定家筆原本を精確に臨模した本であり、天福本とは別種の、しかも定家独特の筆致をあるがままに伝える本と推定できる。 千数百部現存する伊勢物語のほとんどが定家本であるのに、定家真筆は古筆切としても一枚も遺存していない状況で、この本の出現は、伊勢物語本文研究に大きな一石を投ずるものであろう。根源本の中でも最も純度が高いと言われる九州大学蔵伝為家筆本と近いが、掲出本と九大本とを直接比較すると、また54箇所の異同があり、しかも九大本一二一段にある「まかりいつるを見て殿上にさふらひけるおりにて」の傍点部を掲出本が欠くなど両者は全くの別系統である。原本に奥書があったのに写さなかったとするのは、臨模本なので考えがたく、無奥書本ながら、行間勘物が、他伝本の定家勘物とされる傍注の中で、かなり原初的であるのも注目すべき点の一つであろう。 

◇26  宇津保物語(奈良絵本巻子改装)     江戸時代前期写 巻子1軸

99_26


◇26  宇津保物語(奈良絵本巻子改装) 江戸時代前期写 巻子1軸
 千歳茶地丸紋金襴表紙。見返し、金紙。本文料紙、斐紙。本来、横長の冊子本を台紙に貼って巻子本に改装。台紙の紙高20.9、本文紙高15.1糎。 宇津保物語は二〇巻より成っているが、第一巻の俊蔭の巻のみを単独に写し、読む習慣ができた。主人公が波斯国に漂着し、西方へ赴いて数奇な経験のうちに霊琴を得て帰国したり、遺児である娘が兼雅と結ばれて仲忠を生んだものの、大木のうつぼに住むような困窮を味わった末、十余年後、琴の霊験で兼雅と再会して幸福になる運びに変化と完結感があるからであろう。俊蔭のみの古活字版2冊(◆27)の刊行を見、本学蔵の文化11年(1814)書写俊蔭一冊本でも、外題に「うつほ物かたり 完」と書かれている。掲出本は冒頭から始まりはするが、俊蔭があめわかみこ天雅御子から授けられた霊琴を弾くと、7人の天女が舞い降りて遊び、「なんぢはなんぞの人ぞととひ給ふときに、七人の人みならいはいして申さく」で終り後続部分を欠くので、巻一のみの残欠本を巻子仕立てにしたのであろう。絵3枚、途中にも絵を欠いたと思われる箇所がある。7人いる筈の天女が、3人にとどまっているのはご愛嬌。

◆27  宇津保物語 古活字版  江戸時代初期刊  袋綴2冊
 雷文地に蓮華唐草を空刷りした縹色表紙。縦27.0、横17.7糎。古表紙ではあるが原装ではなかろう。左肩に打ちつけ書きの外題「うつほ物語 上(下)」、内題「うつほものかたり 上(下)」。第一丁オモテより毎半葉11行19字程度を縦20.8、横15.3糎に印刷。漢字平仮名交り、平仮名は連続活字使用。上46丁、下38丁、川瀬一馬『増補古活字版之研究』の元和寛永中刊11行本第一種ロに相当し、竹取物語第三種本と同種の活字を用いる。活字に少々摩滅が見られ、また頻出する「琴」字は新彫か。 うつほ物語は源氏物語に先行する二〇巻の長篇ながら、俊蔭の巻のみ書写・印行されることが多かった。印刷されたものの内では、この第一種が最も古く、万治2年(1659)林和泉掾刊絵入本三巻へと続き、全巻の上梓は延宝5年(1677)まで下る。いずれも数少ない典籍である。

○28  源氏物語(伝冷泉為相筆) 鎌倉時代末期写 列帖装1冊
 表紙は墨流し地に金銀泥の霞引、切箔、野毛を撒いて外題はなく、見返しは銀の密な切箔。別紙の扉紙に「二はゝきゝ」とあるのは後補であろう。縦17.5、横17.1糎。本文料紙、斐紙。 源氏物語のような浩瀚は作品では、古い本ほど揃い本は乏しく、揃いでも一部が取合わせであったり、補写の巻を含む場合が多い。そこで揃い本でも1冊ごとに検証する必要があり、これを逆の視点より考えるなら、古鈔本は1冊でも、1括でも、更には1葉の断簡でも本文資料としては貴重である。この1冊は本館所蔵の『源氏物語』写本では最古の鎌倉末期書写本で、伝来の間に4括より成る須磨の巻の第1括が欠け、それをほぼ同時代書写別筆の帚木第1括8丁で補い1冊となしたもの。帚木の前付白紙一丁裏に冷泉為相の筆と鑑定した古筆別家(了任か)の極札を貼る。帚木本文は冒頭より「いとかはらかなりいゑの」(源氏物語大成39頁)、須磨は「わかれはかうのみや」(同400頁)より末尾まで。いずれも青表紙本ながら、それぞれに注意すべき独特な異文がある。須磨にのみ朱の合点。

◇29  源氏物語抜書(中院通茂筆) 江戸時代中期写 巻子本1軸
 藍地に瑞雲・龍等を織り出した金襴表紙、外題なし。金布目紙見返しに続き、縦30.2、横48.5糎の斐紙8枚を継いで本紙とし、さらに1紙を足して中院通躬(1668~1739)正徳4年(1714)9月の加証奥書、その脇に古筆了信の極書を添える。本文料紙は金泥にて蝶・鳥を描き、追加の分もまた同種文様を用いて調和をとる。古い象牙軸。源氏物語若菜下より六条院女楽の場面を抄出、ゆったりと散らし書きしたもの。 筆者は通躬の奥書に「此一巻、先人故内府通?公筆跡也(以下略)」とあるように、その父通茂(1631~1710)の手。通茂は歌人・歌学者として名高く、著述すこぶる多い。水戸光圀と親交のあったことでも知られる。 抄出された本文(源氏物語大成1149~1151頁)は、「えことませてなむ」(諸本)⇔「えことませて」(三条西家本・掲出本)のように、青表紙本系三条西家本に近い。

◆30  源氏物語 桐壺(三条西実隆奥書) 室町時代後期写 列帖装1冊
 縦17.3、横17.5糎の升形本。本文共紙表紙中央に楮素紙片(縦5.0、横2.2糎)を押し、「きりつほ」と墨書、遊紙1丁あって次の丁オモテより毎半葉10行17字前後に写す。本文墨付35丁、奥書1丁(ウラ面のみ)、全4括。付属の包紙に覚書、それに従えば外題は一条兼良(1402~1481)、本文筆者定法寺大僧正公助(??1510)、奥書三条西実隆(1454~1537)となる。他の筆跡資料と比較して、所伝、特に実隆の奥書は信頼出来よう。 青表紙本系統の本文を持ち、源氏物語大成底本(伝二条為明筆池田本)とほぼ同じだが、まま肖柏本・三条西家本に近づく個所もある。行間に細長の小紙片を相当数貼り、「いれいかち也」(「あつしく」の注)、「にてと云切たるよき也」(「よしあるにて」の注)などと記す。具体的な注の出所は不明だが、室町時代末のものか。最終丁ウラに実隆の奥書「此物語全部松浦肥前守源守/感得之云々余先年所見之本也因加筆而已/享禄第二季陽上澣/桑門堯空」があり、かつて一覧した源氏物語に享禄2年(1529)3月上旬奥書を加えたものと判明する。実隆公記同月五日条の「松浦肥前守源守、源氏外題・同奥書所望、今日書之」と対応、ただし掲出本には実隆筆の外題が見えず、伝来の詳細については、なお考うべきである。

◇31  狭衣物語       古活字版    元和9年(1623)刊 袋綴8冊

99_31


◇31  狭衣物語 古活字版  元和9年(1623)刊 袋綴8冊
 「源氏・狭衣」と並称、修辞の妙と構成の美とに秀でて広く愛読さ、後世の文学への影響は大きく、『小夜衣』『石清水物語』などの擬古物語をはじめ、和歌・謡曲から近世の草子類に及ぶ。成立後間もなく改作されたらしく、おびただしい種類の異本が存在し、その系統分類も決定的なものがない。掲出本は4巻を上下に分け8冊として印行、『狭衣物語』の最初の出版かつ近世の流布本たる承応3年(1654)刊本の祖となったもので、享受史上・伝本研究上の重要な資料である。 縦28.1、横20.0糎の紺色紙表紙。元題簽を失ってはいるものの、若干の修補を除いて原装のまま。無辺無界。字面の高さ22.4糎。毎半葉12行、21字詰。平仮名交り、連続活字使用。漢字は二手以上を混用する。外題、第五冊まで表紙左肩に後補の雲母引楮紙題簽を押し「さころももの語」の如く墨書、その下方に「一上(?四下)」と朱書。内題「狭衣巻第一之上(?四之下)」。最終冊末に刊記「元和九年五月中旬 心也開板」。心也については他に出版なく伝記未詳。全巻にわたって句点・濁点・片仮名による訂正などの朱書入あり。巻頭に「九岡成□」の印記。

◆32  浜松中納言物語(祖型本) 江戸時代初期写 袋綴1冊
 縦24.9、横18.2糎、毎半葉11行22字程度、料紙斐紙。虫損甚だしいが藍色無地紙表紙は原装であろう。総裏打を施して補修済み。 従来知られている浜松中納言物語は甲乙二類に分けられ、甲が比較的善本と言えるが、しかし両類とも10箇所以上の誤脱を有する。掲出本はこの誤脱を一切持たず、甲乙に分岐する以前の粗型をとどめるものと推定され(池田利夫「祖型本浜松中納言物語巻二(零本)の新出」古代文学論叢14)、わずかに1冊といえどもきわめて価値の高い典籍。ツレはまだ発見されていないが、同筆と目される『恋路ゆかしき大将』『我が身にたどる姫君』『とりかへばや』(以上国文学研究資料館)『歌合集』(実践女子大学・早稲田大学)などの報告があり(池田利夫「祖型本『浜松中納言物語』の筆者は誰」鶴見大学紀要38、石澤一志「九条家旧蔵本『歌合集』について」国文鶴見36)、九条家ゆかりの人の書写であろう。
〈番外〉 源氏物語屏風(大学祭期間中のみ特別展示)
 源氏絵の屏風はかなり遺存しているが、多くは一隻に数巻の場面が金箔の雲形で仕切られた空間に描かれている。これは向って右に桐壺、左に胡蝶の巻を配する。本来は一双あったのであろう。桐壺の画面は、7歳ごろの源氏が鴻臚館の上段に座り、高麗人の相人に相を占わせている図。胡蝶は、太政大臣に至った源氏が豪壮な六条院を建て、池に龍頭鷁首の船を浮かべ、秋の町の女房たちが、紫上のいる春の町へ、船楽の奏される中を舟でやってくる場面と、翌日、中宮の方で季の御読経が催され、紫上が迦陵頻と胡蝶の舞装束をさせた童女たちを差し向け、仏に花を献じた上、舞わせたという図が一つになっている。鴻臚館の築地を松葉で糊塗し、しかも上方に伸びる枝ぶりが作為的で、後補の筆が入ったと見てとれる。一双のうち一隻づつの片面にそれぞれ損傷が生じ、両者を繋ぎ合わせることで一隻をとどめるため、接合部分に手を加えたのではないだろうか。源氏屏風としてはやや小ぶりながら、人物や建物の細部まで精密に描かれており、華やいだ気分あふれる作品。

  IV 軍記

○33  異本平家物語断簡 長門切(伝世尊寺行俊筆) 鎌倉時代末期写 台紙張1葉
 縦30.6、横14.8糎の斐紙に界高27糎余の淡墨界を施し1行18、9字書写、那須与一扇の的の有名な個所である。大ぶりの紙面に世尊寺流の能筆が映え、いずれの断簡も一貫した調子でゆるみなく書写し、まま朱合点あり。 『新撰古筆名葉集』行俊の項に「平家切 巻物 上下横界アリ」と見え、「長門切」の称は国宝手鑑『見ぬ世の友』の付箋による。長門本平家物語とは関係ない。すべての切が世尊寺行俊(??1407)を伝称筆者とし、古筆切にしばしばおこる伝称筆者のゆれのないのは、相当量の巻子本が組織的に分割されたことを意味するのかもしれない。書写年代については研究者によって認定に差があるけれども、行俊よりは古く、その祖父行尹(1286~1350)あたりが時代的にはふさわしい。行俊に擬せられた理由不明、巻子本の段階で行俊の奥書識語の類でもあったものか。 おびただしい平家物語の異本中増補(読み本)系諸本特に『源平盛衰記』との親縁性がよく指摘され、その祖本的な要素が強いとも言われる(藤井隆「平家物語異本平家切管見」松村博司先生喜寿記念国語国文学論集)。諸本のいずれとも重ならない独自な異文を持つことや、現存最古の本文資料であること等その意義は大きい。現在40葉ほどが知られ、掲出の断簡の他本学には12葉を蔵し、最大のまとまりである。

○34  平家物語  零本  室町時代末期写 袋綴2冊
 縦22.4、横21.6糎の藍色無地紙表紙。痛み多く補修を加えるも原表紙か。中央に蝋箋外題を押し「平家物語 巻一(二)」と墨書、巻一本文と同筆のようである。内題同じ。毎半葉8行17字程度漢字平仮名交り、巻一と二とは別手で、巻一の方が老筆らしい。目録なく章段ごとも改行せずに書き通す形式。通常の分巻と同じく、巻一内裏炎上、巻二蘇武までを写す。 全巻にわたる朱の書入れあり。これも少くとも二段階に及び、早い時期に章段の始まりを示す合点と章段名、遅れて片仮名傍訓・合符等を記す。章段の区切れは必ずしも諸本と一致しない。 横幅を大きくとった堂々たる写本で、覚一本系本文を持つ。室町時代の伝本として貴重だが、巻三以下を欠くのが惜しまれる。

○35  曽我物語  江戸時代初期写 袋綴12冊
 縦30.8、横21.8糎の大型本。各冊ごとに図柄を変えた金銀泥下絵の原表紙、その中央に朱に金箔散らし原題簽を押し、「曽我物語一(~十二)」と墨書。左端に押発装が認められ、全体として丹念な装幀である。赤と紺との2種類の綴じ糸を用いるが、赤が原糸。各冊とも巻首題・尾題を同じくし、「曽我物語巻一(~十二)」と記す。斐楮混漉き料紙に全巻一筆で毎半葉10行12?25字書写、本文と同筆の振り仮名・濁点を付す。奥書・識語等はなし。仮名本の完本であり、傍系説話の付加状況などから見ると、武田本(國學院大学)乙本と共通する点が多い。最古態とされる太山寺本と通行の整版本との間に位置する貴重な伝本であろう。

○36  義経記 零本 古活字版丹緑本  元和寛永中刊 袋綴1冊 <個人蔵>
 巻二のみ存。縦28.0、横19.8糎の後補藍色無地紙表紙、左方に楮素紙題簽(縦19.2、横3.6糎)を押すも、外題記入なし。内題は首尾ともに「義経記巻第二」、毎半葉12行23字程度、印刷面縦23.3、横15.5糎。全45丁、遊び紙なし。かなりの損傷を蒙っており、総裏打ち補修済み。元和・寛永(1615~1644)中刊第二種本(川瀬一馬『増補古活字版之研究』)のイに相当し、四周単辺(縦19.5、横14.7糎)の挿絵8面を持つ。素朴な図柄に朱・緑等の彩色を施した所謂「丹緑本」であり、痛みはあるものの、十分に時代の趣きを味わえる。丹緑本と称される典籍の中には鮮やかすぎる顔料をくどく塗った例が相当多く、それは価格をつり上げるための悪質ないたずらである。最近、やはり義経記古活字版12冊揃い本を丹緑本として売り出した老舗あり、実見したところ至極怪しいものと判ぜられた。

○37  明徳記(寛永九年版) 寛永9年(1632)刊 袋綴3冊
 縦26.0、横19.0糎の渋引後表紙を付した漢字片仮名交じり整版本。左肩に子持ち枠を刷った題簽を押し、「明徳記(割書き「上(中・下)巻/称意館蔵本」)」と墨書。各冊とも巻首題「明徳記巻第上(中・下)」、その下に「いん斎蔵」の長方形朱文印あり。丁数はそれぞれ21・29・23丁、毎半葉12行。全巻に異本との対校結果を示した朱墨二種の書き入れ、各冊末尾に「壬戌四月十有八日校了」、「壬戌夏念四校過」、「壬戌初夏念七日校了」とあって、校合月日が判明する。下巻最終丁に「寛永九年壬申季冬刊行」の刊記、さらに「享和壬戌春新収」の墨書が見え、旧蔵者は享和2年(1802)に入手、程なく校合を行ったと知られる。明徳記は、書陵部本・神宮文庫本などの初稿本系統と、陽明文庫本を完本とする改稿本系統に大別され、掲出の整版本は前者に属する。3巻の揃いは比較的珍しい。

 V 漢籍

○38  文選 古活字版  寛永2年(1625)刊 袋綴31冊
 朱無地紙表紙。縦30.0、横22.8糎。押発装あり。外題、左肩に楮紙題簽を押すも破損落剥甚しく、不能読の冊多し。「文選 一之二(~五十九之六十)」と墨書したものであろう。本文60巻を2巻1冊の形式で合冊、目録1冊を加え31冊の印行、古い杉箱に収む。 四周単辺、匡郭内縦23.3、横17.2糎。目録の冊のみ有界。毎半葉10行22字、割注多し。版心、花口魚尾に「文選 巻一(~六十)」として丁付を印刷。朱の句点・合符、墨の返点・片仮名訓・傍注が全巻にわたって存する。 最終冊末に「右文選板歳久漫滅(以下略)」の紹興28年(1158)南宋明州刊本の刊記を転載し、その後一行あけて、「慶長丁未沽洗上旬(以下略)」。これは所謂直江版『文選』の刊記である。 朱表紙大型本の堂々たる書品、前掲の刊記のみを見るならば直江山城守兼続(1560~1619)が要法寺において印行せしめた直江版『文選』の如くである。しかし丁のオモテの直江版刊記のみを引用しそのウラ面「寛永二乙丑」以下の刊記部分を切りとり、巻四の本文の最終丁をここへ移して糊付けしたもの。なかなか冴えた腕であり、勿論寛永版を直江版に見せかけるための詐術。なおこれを収める箱の蓋表には見事な隷書で「直江兼継校定慶長槧本/六臣注文選卅一冊」と記し、偽妄の古く行われたことを示している。 「読杜草堂」「寺田盛業」「字士孤号望南」(以上寺田望南)、「小汀蔵書」「をばま」(以上小汀利得)の蔵書印あり。 

◇39  大慈寺八景詩歌断簡 畠山切(伝二条良基筆) 南北朝時代写 台紙張1葉 <個人蔵>
 縦32.5、横13.2糎の藍内曇斐紙。天地に金界(界高27.3糎)を施し、1行18字に写す。掲出の断簡は4行分存、建仁寺荊山如琳の七言律詩であり、雲巣集によって「橋辺暮雨」の題と判明する。 装飾料紙を用いた大型巻子本が原態。康暦3年(1380)今川了俊(1326~1414?)が発起した日向国志布志の大慈寺にちなむ八景詩歌を書写、和歌・漢詩の伝称筆者はそれぞれ了俊と二条良基(1320~1388)だが、実際の筆者は別である。義同周信を顧問とし、その弟子柏庭清祖が編集にあたったらしい。漢詩を主とし和歌を従としてまとめられ、春屋妙葩・絶海中津ら五山の名僧が参加、二条為遠・九条忠基なども歌を詠じた(堀川貴司「大慈寺八景詩歌について」国語と国文学67-6)。元来は詩・歌別々の巻子本に仕立てられたが、分割後両者呼びツギした切もある。 南北朝時代詩歌集清書原本の残る珍しい例であり、掲出断簡は未紹介の1葉。

◆40  風俗通 残簡  元大徳9年(1305)刊 粘葉装1冊
 仮表紙包背装、縦32.7、横23.3糎。仮表紙の題簽に「風俗通七巻<五枚 宋版 精印/無破損並蔵書印>」とあるが、宋版ではなく元版。風俗通は後漢の応劭が、事物の名称を明らかにし、一般人士の誤った考えを正そうと著わした書。元来は30巻とも32巻あったとも言われるが、宋代で既に10巻が残るに過ぎなかった。この残簡は巻七の第一裏、三、四、五、六と八の表までの5枚、宋末元初の製本通り、版心を中央に糊とじにした粘葉装の原装のまま保存されているのは珍重すべきである。大抵の伝本は、後世これを版心のところで逆の二つ折りにして、袋綴として改装されているからである。 本体料紙の寸法は縦32.1、横41.8糎。四周双辺、匡郭内寸法、縦22.3、横14.9糎。有罫、毎半葉9行17字。版心は線黒口、双魚尾、題「風俗通七 一(~八)」。版木に裂け目の認められることがあるものの、摺は良好で、仮表紙題簽の注が指摘するように「精印 無破損」の、ゆったりしたとした風韻ある残簡。宋版のように見えるが、「殷」「桓」といった宋代天子の諱を欠画(天子への礼で、その漢字の一画を省くこと)にしていないので、宋版とは認めがたい。『北京図書館古籍善本書目』子部に、「風俗通義十巻<元大徳九年無錫州学刻明修本 黄延鑑跋 一冊 九行一七字 細黒口 四周双辺>」とある書誌(細黒口は線黒口と同じで、版心の上部に縦に黒線のあること)がほぼ一致するので、北京図書館本はこの版の明代修訂本と考えて誤りあるまい。大徳9年(1305)は元二代皇帝成宗の世。寡聞にして本邦にも他に同一伝本があるのを知らない。

○41  白氏文集 銅活字版    明正徳8年(1513)刊 袋綴24冊 

99_41


○41  白氏文集 銅活字版  明正徳8年(1513)刊 袋綴24冊
 表紙は近代の改装で、紺地に金の揉み箔撒き。縦25.9、横17.2糎。改装に際して天地と背を若干切断し、本文の全部に間紙を挟入する。外題なし。内題「白氏長慶集」。目録2冊、本文71巻22冊。上下単辺、左右双辺、縦19.1、横13.1糎。巻尾に、後周陶穀の「龍門重修白楽天影堂記」なる文(広順3年(953)記)を後序の如く置くが、本文は銅活字版であるのに対し、序とともに、これは整版である。刊記はないが、陶穀の文のあと半葉欠落しているので、そこにあったか。白口(版心の上部が白いこと。黒口に対する)魚尾の上に「蘭雪堂」、下に「白氏文書(巻・丁数)」。『北京図書館古籍善本書目』集部に「白氏長慶集七一巻目録二巻<唐白居易撰 明正徳八年華堅蘭雪堂銅活字印本 二四冊、八行一六字白口 左右双辺>」に当り、同館編『中国版刻図録』掲載の書影と比較して全く同版。毎半葉有界8行、16字。北京図書館蔵本解題によれば、「後印正徳癸酉歳(1513)錫山蘭雪堂華堅活字銅版」と印行されていた。蘭雪堂活字本は会通館活字本と並んで、明代活字本の代表的なものであり、『中国版刻図録』によっても、藝文類聚(正徳10年刊)、蔡中郎文集(同年刊)が見られる。唐の詩人、白居易(白楽天)はあまりに著名であり、わが国文学に与えた影響は計り知れない。白氏文集も夙に印行され、渡来したが、本邦に宋版は現存せず(北京図書館には伝存)、この正徳8年銅活字版は、日本でも他に、大倉集古館蔵本(第二四冊末の陶穀「影堂記」3丁を欠く)が知られるのみ。第3冊本文第一丁表右側に、下より「汪士鐘読書」「呉寛」「趙洞」(陰刻)の各角朱印と「汪」の丸朱印を捺すほか、巻二一巻首匡郭の上に「醒老」なる陰刻角朱印を捺す。汪士鐘は清の蔵書家として名高い。全巻に、墨、朱、稀には青墨で傍点を施すのは北京図書館蔵本と同じで、欄外頭書に考勘が往々に記されているのとともに、いずれも中国人の手になると思われる。南宋本を受ける「先詩後筆本」で、北宋本系の「前後続集本」との関係を論ずる上に不可欠な資料。成化21年(1485)の「新鋳字跋」を持つ宮内庁書陵部蔵朝鮮銅活字本とは全く別種であり、刊記を佚するとはいえ、完存する極めて稀覯の伝本。 

2003年7月 4日 (金)

98 2003/07/04~07/31 筆触が語る日本近代文学(女性篇)

第98回展示

筆触が語る日本近代文学(女性篇)

2003/07/04~07/31

98poster


筆触が語る日本近代文学(女性篇)
 「筆触」とは、筆ざわり(タッチ)という意味で使われてきた語であるが、ここでは作家達の創造行為・表現行為の開始点を意味するものとして用いたいと思う。ここで取り上げる「直筆原稿」は白い原稿用紙に向かって作家が表現を行うその瞬間瞬間を刻印したものである。それは多くの場合、印刷に回される前提として、書かれたものであるから、執筆の過程において幾度か推敲され、書き込みや書き換え、そして抹消線等が加えられてある。活字化されると同時に消滅するそれら混然たる「筆触」に接することで、作家達の創造行為に(想像的に)立ち会うことが出来るのである。「筆触」は又「筆蝕」とも言われ、斯界では有用なキーワードとなりつつあるが、「直筆」「肉筆」を参観する意味を、創作の現場に近づくことと言う点に集約して捉えることとしたい。
 小金井喜美子の「歌稿」や、森しげの「お鯉さん」のごとく、執筆者に近い著名人の添削を経た珍しいものはまさに特殊な例外として、多くのものは新聞・雑誌への掲載が目論まれていたために、編集者の筆が入っている。その多くは印刷に携わる人々への技術的な指示であるが、中には作家の文字の読みを明確にするための書き加え等も散見する。これらは作家達にとっては「最初の読者」のかかわり方を表す、とも言えるだろう。創造行為・表現行為が目指す他者との対話の(最初の)痕跡なのである。今、我々はこれらの「筆触」に耳傾けて、新たな対話を試みることが出来る!
 さて、わが国の文学は男女両性がそれぞれの特性を発揮して形成されてきたものであることは言うまでもない。本学図書館において所蔵されてきた重要資料のうち「直筆原稿」の筆者の相当部分が女性であることは当然自然の成り行きで、これが日本近代文学の、古典に連なる伝統的な一面を伝えるものであるのは間違いないだろう。ここでは女性篇として先ずは展観に供する次第である。
 与謝野晶子や長谷川時雨から、郷静子や金井美恵子まで、30点に過ぎない展示ではあるが、個性ある女性達の創造行為の現場に近づくことが出来るだろう。そのための案内を努めたのである。
 鶴見大学図書館員の方々のお導きのもと、鶴見大学大学院で日本近代文学研究を専攻し各領域で活動中の、相模久美子・野中なつき・石月麻由子・安西晋二各氏との相談のうえで、在学中の小原佳那子・森由美子・滝川義康の諸君とともに案内のための作業に携わり得たことを深い喜びとするものである。

   文学部教授 内田 道雄

981

982

984



展観リスト
1.小金井喜美子   歌稿

初出;自家歌集『泡沫千首』1940.6

(1870-1956)森鴎外の妹。翻訳・小説・随筆と幅広く活動したが、日本の新体詩を発展させる契機となった『於母影』の訳者の一人として、特に知られている。展示原稿は、1940年自家出版された歌集『泡沫千首』に収録されたもので、朱の文字は、与謝野鉄幹・晶子夫妻の添削の跡(末尾に「寛/晶子/両人拝見」と明記されている)。添削の経緯については、晶子が『泡沫千首』にあてた序文の中で触れている。
 なお、阿部正路「小金井喜美子の歌」(「国学院雑誌」昭和58年1月)を見るに、この展示原稿は、以前、阿部氏の私蔵品であったと推される。

2.与謝野 晶子   賀頌(山田耕作作曲)

初出;女性1924.2.1 

作者は言うまでもなく、近代短歌をリードした存在で、初出誌の当号は、大正時代の皇太子・裕仁親王と良子妃とのご成婚記念号。本作はその雅歌として作られた。曲譜とともに掲載されている。
(1878-1942)歌人、詩人。大阪府堺生れ。堺敷島会の会誌に和歌を投稿したのが創作活動の始まり。東京新詩社に入って、明治33年5月号の『明星』に短歌「花がたみ」5首が載り、山川登美子らとともに注目されるようになった。西下した与謝野鉄幹に会い、ついに上京して彼のもとに走る。『みだれ髪』(明治34年8月、東京新詩社)は主に若き師たる鉄幹への思いを歌い上げた歌集である。結婚後5男5女の母となり養育に奮闘する中で数多くの詩と歌とそして童話等を作り、『青鞜』の賛助員となるなど、多くの後進の導き手となった。源氏物語全巻の現代語訳を進めた業績も大きい。

3.長谷川 時雨   続旧聞日本橋    

初出;東陽美術 1936.8-11

(1879-1941)劇作家、小説家。東京生まれ。佐々木信綱に師事して和歌を学んだのが文学的出発。処女小説「うづみ火」が『女学世界』(明治34年11月増刊号)に掲載された。戯曲の処女作が「海潮音」で、坪内逍遥の選を経て『読売新聞』(明治38年10月)に連載、41年新富座で上演された。爾後大正昭和に亘り、演劇界を中心に活動した。『長谷川時雨全集』全5巻がある。

4.森   しげ   お鯉さん
      
初出;三越 2-11号 1912.10.1

(1880-1936)森鴎外夫人。夫の勧めにより執筆活動にはいる。中でも嫁姑の確執を辛辣に描いた鴎外の「半日」に反応して執筆された「波瀾」は特に有名。展示原稿「お鯉さん」に見られる朱は、大正元年(1912)9月8日の鴎外日記に「妻の作お鯉さんを閲す」とあることから、鴎外のものと推される。なお掲載誌「三越」は、三越呉服店の機関誌で、しげはここに本作品の他に2編を発表している。単行本としては未収録。

5.岡田 八千代   俳優の家の色と好み

初出;不明。

(1883-1962)小説家、劇作家。広島生まれ。旧姓小山内。兄が小山内薫。『明星』明治35年8月号に発表の「めぐりあひ」が処女作。ついで小説「おくつき」(『婦女界』明治35年10月号)など。『青鞜』賛助員となり、森鴎外に親炙、その勧めもあって三郎助と結婚。長谷川時雨と雑誌『女人芸術』を創刊。戦後に亘り、演劇家として活躍。日本女流劇作家会を創立。昭和37年2月10日没。代表作は長編小説『新緑』、戯曲『黄楊の櫛』。他に名著『若き日の小山内薫』がある。

6.大村 嘉代子   紫流転―田村俊子の一生 

初出;婦人公論 号数不明

(1884-1953)劇作家。高崎生まれ。明治44年、岡本綺堂門に入る。出世作「みだれ金春」(大正9年5月、帝劇上演)以後昭和4年ごろまで最も活躍した。『大村嘉代子戯曲集』(昭和8年5月、舞台社)がある。田村俊子とともに演劇活動を行った縁から、俊子没後度々求められてその変転に満ちた一生につき書く。展示資料はそのうちの一編。特に内容豊富なものである。昭和28年5月3日に没する直前の原稿と思われる。

7.野上 弥生子   二人三脚     

初出;婦人公論 1955.11 

同誌の巻頭言。求められて長期にわたり連載したもののうちの一つ。
(1885-1985)大分生まれ。小説家。16歳で上京して明治女学校に入り、この後同郷の野上豊一郎と出会い高等科卒業の明治39年に嫁した。豊一郎とともに漱石門に入り、「明暗」「縁」「七夕さま」等でその激賞を得た。『青鞜』には、翻訳を載せ、女流文学の振興に力を発揮した。昭和50年代に至るまで活動を続け『海神丸』『真知子』『迷路』など多くの名作を残した。

8.平塚 らいてう  食餌療法      

初出;東京日日新聞 1938.8.1号に掲載か

(1886-1971)評論家。東京生まれ。十代の頃から男女差別に疑問を抱く。日本女子大家政科卒業。成美女学校の閨秀文学会に参加し、森田草平とのいわゆる煤煙事件の後、女性だけの文芸雑誌『青鞜』を明治44年9月創刊。中心的存在として編集・経営・執筆に邁進。大逆事件や二つの大戦などに代表される独裁的軍国主義の潮流の中で『円窓より』などの著作が発禁を受けることもしばしばあった。晩年には『元始、女性は太陽であった』など自伝的な著作を発表している。生涯、婦女子の存在価値の尊さや平和を論じた。展示原稿は短文だが、推敲の跡著しい。筆者の気質であろう。

9.森田 たま    女の顔       

初出;随筆集『随筆きぬた』1938・7

(1894-1970)随筆家。北海道生まれ。明治44年に文学を志して上京し、大正2年に森田草平に師事する。大正2年9月「片瀬まで』を『新世紀』に発表。昭和7年には森田草平の推薦で随筆「着物・好色」を『中央公論』に掲載、以後随筆家として文壇に迎えられた。『森田たま随筆全集』(全3巻)が昭和47年に講談社より刊行されている。

10.吉屋 信子    妖婢        

初出;オール読物 1952.9

(1896-1973)小説家。新潟県生まれ。栃木高女時代に投稿した童話「鳴らずの太鼓」が『少女界』に1等入選。熱心な雑誌投稿を経て大正5年から13年まで「花物語」が『少女畫報』に連載され、少女小説の代表作家となる。少女小説の他、長編、短編、童話など幅広いジャンルで活躍。大正11年には『海の極みまで』が映画化、流行作家の地位を不動のものにする。昭和12年『良人の貞操』が完結。映画・舞台でブームを呼ぶ。『安宅家の人々』『女人平家』など著作多数。

11.宇野 千代    糸瓜

初出;不明

(1897-1996)小説家。山口県生まれ。波乱万丈な青春時代を送る。大正4年回覧雑誌『海鳥』を発行するが3号で終わる。大正6年に上京し、様々な職を経て、芥川龍之介や佐藤春夫などの著名な作家と知り合う。処女作「脂粉の顔」が『時事新報』の懸賞短編小説で1等入選。本格的な作家活動に入る。その後も華やかな私生活とともに執筆活動も充実していた。主な作品に『色ざんげ』『おはん』などがある。

12.中条 百合子(宮本百合子)   金色の口    

初出;読売新聞「文壇曲射砲」欄 1937.9.23 河出版全集第15巻に収録

(1899-1951)小説家。東京生まれ。高女の頃からトルストイを愛読。大正5年(17歳)の時中編小説「貧しき人々の群」で坪内逍遥の推薦により『中央公論』に掲載。天才少女と謳われる。アメリカ留学、ソ連遊学などで見聞を広め、プロレタリア作家の同人となる。展示原稿の執筆当時は、日本プロレタリア文学同盟は解散し百合子は安定した活動の後ろ盾を失い、共産党員で獄中の宮本顕治の妻として悪名が高かった。日本共産党の指導下に結成された日本プロレタリア作家同盟の中でも生涯転向しなかった稀な作家である。代表作には「伸子」がある。

13.網野  菊    桃の缶詰

初出;不明。

(1900-1978)小説家。東京生まれ。日本女子大在学中の同期性に中条百合子がいた。処女短編集『あき(秋)』(大正9年12月、国文館より自費出版)。大正末頃から志賀直哉に親炙、その斡旋により短編集『光子』を刊行。志賀の手法に学び、身辺小説に新風を開いた。大戦後、『金の棺』で女流文学賞、『さくらの花』(昭和36年10月、新潮社)で芸術選奨。ついで『一期一会』(昭和42年2月、講談社)で読売文学賞。『網野菊全集』(全三巻、講談社)がある。

14.壷井  栄    明治女

初出;素面 4号 1967.6.15

(1900-1967)香川県小豆島生まれ。小説家。「大根の葉」(『文芸』1938.9)で文壇に登場して以来、『母のない子と子のない母と』(昭和26年4月、光文社)「二十四の瞳」(『ニューエイジ』1952.2?11)等で文部大臣賞(昭和27年)、「風」(『文芸』1954.11)で女流文学者賞などを受賞。展示原稿「明治女」は、『壷井栄全集』にも収録されていない小品ではあるものの、ブルーブラックの万年筆を用い、独特のくずし方をした、彼女の味のある筆致をうかがうことができる。

15.小山 いと子   熱いトタン屋根の上の猫―妻の焦慮と愛慾を描く―

初出;婦人公論か                  

(1901-1989)昭和8(1933)年に「海門橋」(『婦人公論』1933.8,9)で文壇デビュー。製糸工場に取材した「4A格」(『新潮』1938.12)で芥川賞候補となる。戦後は「執行猶予」(『中央公論』1950.2)で直木賞を受賞。                             
 さて、『熱いトタン屋根の上の猫』は『欲望という名の電車』で有名なT・ウィリアムズ脚本の映画である。アメリカ公開が1958年であるから、小山いと子のこの批評もその直後、もしくは数年内のものであることが伺える。原稿用紙にはゴム版で「婦 公」とあり、婦人公論が初出ではないか、と推測されるが未確認。原稿には編集者による大幅な削除がされており、内容を目にすると、当時の婦人雑誌(もしくは日本の倫理観、社会観)には刺激的であった事が伺える。「ダム・サイト論争」を引き起こした作家であるだけに、問題提起がよく見える原稿である。

16.森 三千代    田漢さんのこと

初出;不明

(1901-1977)詩人、小説家。京都府生まれ。東京女高師在学中に金子光晴を知り、結婚。大正14年、光晴と上海へ旅行した後、詩集『龍女の眸』(昭和2・3)『鱶沈む』(昭和2・5)を出す。昭和17年には外務省から文化使節として仏印へ派遣された。小説は身辺に取材した私小説が多く、光晴との関係を描いた『去年の雪』(昭和34・5)などがある。展示原稿もかの地で出会った人の思い出である。

17.森  茉莉    甘い蜜の部屋

初出;新潮 1967.2

(1903-1987)森鴎外の長女。『甘い蜜の部屋』は泉鏡花賞受賞作品で、展示資料はその第2部「甘い蜜の歓び」の直筆原稿。のち、新潮社から刊行(1975.8)。『森茉莉全集』(筑摩書房、1993)に再録。

18.幸田  文    目         

初出;報知新聞《文化欄》1949.7(のちに、婦人画報 1957.6)

(1904-1990)随筆家、小説家。東京生まれ。幸田露伴の娘。昭和22年、雑誌『芸林間歩』が「露伴先生記念号」を特集したとき、父をめぐる生活を内容とした「雑記」を書いた。これが処女作である。昭和30年1月?12月にかけて小説『流れる』を雑誌『新潮』に発表。この作品により新潮社文学賞を受賞。他に『黒い裾』『おとうと』など、多数の作品がある。展示原稿は、鉛筆で書かれた特色があり、「描く」などの漢字の横に仮名(かく)をふるといった、読ませ方にこだわる面を見せている。

19.佐多 稲子    「くれなゐ」の頃と今日 

初出;婦人公論 1958.11

(1904-1998)小説家。長崎県生まれ。小学校5年で退学し就労。本郷動坂のカフェ「紅緑」で女給をしている頃、芥川龍之介や室生犀星の支援を受けることとなる同人誌『驢馬』の参加者である中野重治や堀辰雄らと知り合い、昭和3年に『驢馬』の同人達が左翼運動に入っていくのに影響され『キャラメル工場から』を執筆。その後、中条百合子らとともに日本プロレタリア作家同盟に参加し、共産党に入党した。第二次大戦後も左翼的な文筆活動を続ける。代表作には「くれなゐ」がある。展示原稿は戦時下の自作をめぐる話題を回顧して語るもの。

20.円地 文子    北の新地

初出;太陽 vol.98 1971.8 『女人風土記』(1972.11、平凡社)に収録。

(1905-1986)東京生まれ。劇作家、小説家。大正15年10月、演劇雑誌『歌舞伎』に戯曲「ふるさと」が当選。以後、戯曲や小説の創作で活躍。「ひもじい月日」(『中央公論』1953.12)で女流文学者賞を受賞。その他、代表作に『女坂』(昭和32年3月、角川書店)などがある。展示原稿「北の新地」は、「女人風土記」の総題で『太陽』誌上に15回連載されたものの一篇で、大阪を舞台とした男女(特に女性)の物語について綴ったエッセーであり、旧かなまじりの大胆な筆致は、如何にも明治生まれを思わせるといえるだろう。

21.平林 たい子   里村欣三

初出;里村欣三(解説)現代文学代表作全集2 万里閣 1978.8.15

(1905-1972)小説家。長野県生まれ。思春期にロシア文学や北欧文学に親しみ、ゾラの『ジェミナール』や雑誌『種蒔く人』を読み、社会主義思想に興味を深め、高女卒業時には社会改革に人生の主眼を置いていた。アナーキストのグループに係わるなどした後、昭和2年5月『大阪朝日新聞』に「嘲る」が入選。ついで「施療室にて」が『文芸戦線』に発表されプロレタリア文学者となるが、日本プロレタリア文学同盟の内部分裂に際して労農芸術家連盟を結成。以後、共産党指導下の芸術連盟と対立しながら活動を続ける。第二次大戦中に検挙され、留置所で肺結核と腹膜炎に罹り重態の為釈放され、回復後郷里に疎開して終戦を迎える。終戦当時の作品「冬の物語」「私は生きる」などは政治よりも人間に重点が置かれ、生への力強い執着が見られる。戦後は共産党出身でありながら戦争協力者であった文学者達による新体制の文学潮流に迎合せず、左翼批判をし物議を醸した。「里村欣三」はかつての運動の友連れである。

22.小堀 杏奴    出会い 

初出;むらさき   1972.6.16

(1909-1998)森鴎外・しげの次女。仏英和女学校卒の後、洋画家・小堀四郎と結婚。与謝野寛・晶子夫妻主宰の新詩社に加わり、その機関誌「冬柏」に「外遊だより」、「晩年の父と私」、「父上の事」を発表して注目された。著書に『晩年の父』(1936年、岩波書店)、『森鴎外・妻への手紙』(1938年、岩波書店)などがある。
展示原稿「出会い」は、彼女が文化学院大学部の聴講生として受けた与謝野晶子の源氏物語講義の思い出を綴ったもの。

23.中里 恒子    隣人        

初出;不明

(1908-1987)小説家。神奈川県生まれ。神奈川高女卒業後、「創作月刊」に『明らかな気持ち』『砂の上の塔』の習作を発表。結婚で創作活動を断念するが、後に「文学界」に『花亜麻』が掲載され、川端康成、堀辰雄らの知遇を得る。昭和14年に『乗合馬車』で女性作家初の芥川賞を受賞する。その後も『乗合馬車』連作の登場人物を再登場させた作品や、作家自身の一人娘の見聞によった『鎖』など、人生経験の深みを取扱った作品が見られる。

24.永井 路子    山田寺から薬師寺へ

初出;つるみ 1983.9(本学同窓会誌への寄稿文である)

(1925-)。小説家。東京生まれ。昭和27年に『三条院記』で『サンデー毎日』の懸賞小説に入選。鎌倉三大の時代的特色を捉えた作品『炎環』で第52回直木賞を受賞。『北条政子』『一豊の妻』『乱紋』など激動期に生きる女性の姿を描いた歴史小説が代表作に挙げられる。

25.河野 多恵子   ほんとうの「度胸」を支えとして

初出;婦人公論 1972.1(原稿では「ほんとうの「度胸」に支えられて」、その他編集段階で付け加えられた見出しなども散見する)

(1926-)小説家。大阪生まれ。大阪府女専当時から、人形浄瑠璃に親しみつつ谷崎や鏡花の幻想性にひかれていた。戦後、『文学者』同人となり、習作を発表、昭和36年「幼児狩り」で同人雑誌賞、昭和38年「蟹」で芥川賞をそれぞれ受賞した。代表作に長編「不意の声」同「回転扉」等がある。

26.郷  静子    ブンガクへのはるかな道

初出;新日本文学  1977・10

(1929-)小説家。神奈川県生まれ。わが鶴見高女の卒業生である。戦時中勤労動員の経験があり、戦後は結核のため療養所を転々としながら日本文学学校に通い、野間宏の影響を受けた。『れくいえむ』(昭和42年 文芸春秋)で第68回芥川賞を受賞。他に『文学界』掲載の「成就」「幽霊」「囲いの外へ」などがある。

27.有吉 佐和子   げいしゃ・わるつ・いたりあの(25)

初出;週刊東京 1958.5.17号掲載 1959.1中央公論社より刊行。

(1931-1984)小説家。和歌山生まれ。昭和31年「地唄」が文学界新人賞候補作となり、また、芥川賞候補にも挙げられた。これによって文壇に登場。話題作は「華岡青洲の妻」(昭和46年)である。この作品で第6回女流文学賞を受賞した。昭和59年8月30日没。代表作に「紀ノ川」「恍惚の人」など。
                         
28.冨岡 多恵子   私のアルバムから

初出;不明

(1935-)大阪生まれ。詩人、小説家。大学在学中に処女詩集『返礼』(昭和32年10月)を出版、翌33年第8回H氏賞を受賞した。昭和46年作の「イバラの燃える音」は第66回芥川賞候補となった。「冥途の家族」(昭和32年10月)により第13回女流文学賞受賞。他に『ニホン・ニホン人』『ひべるにあ島紀行』など。

29.吉行 理恵    悲歌    

初出;詩集『幻影』(1965.12 中央公論社刊)

(1939-)詩人、小説家。和歌山生まれ。吉行エイスケの子、吉行淳之介の妹。詩集『幻影』は処女詩集『青い部屋』(昭和38年10月)に次ぐ第二詩集である。「夢の中で」(昭和42年11月)によって第8回田村俊子賞を、「小さな貴婦人」(昭和56年)によって第85回芥川賞を受賞。童話『まほうつかいのくしゃんねこ』『吉行理恵詩集』などがある。

30.金井 美恵子   岸辺のない海(連載第十回)

初出;海 1972.9 1974.3中央公論社より刊行。

(1947-)詩人、小説家。和歌山生まれ。「愛の生活」(『展望』昭和42年8月)が太宰治賞候補作となり、19歳の若さでデビュー。作品世界はアンチロマン風の独特のものである。作品集『夢の時間』詩集『マダムジュジュの家』などがある。

            

        

2003年1月11日 (土)

96 2003/01/11~01/30 源氏物語-書物の魅力-

96 2003/01/11~01/30 

源氏物語-書物の魅力-

96posimageali


 古典文学への近道

   展示リスト

   解題    
  
    I  表紙の意匠
    II  本の大小
    III  装幀のいろいろ
    IV 料紙の贅沢
    V  版本の力

古典文学への近道
                   
文学部教授 高田信敬

 蚯蚓ののたくったような漢字の草体や変体仮名よりも活字翻刻、注釈があればなお

結構、現代語訳がつけば言うことなし、それでもまだ古典を読むのが面倒とおっしゃ

る向きには、口当たりのよい、もしくは猫なで声の解説まであるこの御時世、機械が

お好きなら、曰くデジタルアーカイブズ、曰く電脳図書館、最新鋭の硬軟(ソフト・

ハード)両面に事欠かぬことのそれはそれとして、ちょっと立ち止まって考えるなら

ば、これら便利なあれこれに従うことは、源泉からどんどん遠ざかることを意味しな

いか。人の手がやたらと加わり、鮮度が落ち、あやしげな添加物が一杯入った料理を

食べさせられるのと、それは似ている。パソコンに打ち込まれた現今の小説はいざ知

らず、筆と墨とで紙の上に生まれ出た文学ならば、可能な限りもとのかたちーなにが

「もと」であるのかについて議論もあろうがーに寄り添ってみるのが望ましく、かつ

とても贅沢な行き方であるように思われる。数百年を経た、味わい豊かな典籍に触れ

るとき、最善最高の方途とは言わないまでも、古典文学への近道の一つを、私たちは

確実に辿る。ともあれ古典中の古典『源氏物語』について、こまかくその内容を知ら

ない方々も、美しく楽しい書物の装いを鑑賞していただきたい。

展示リスト

1  源氏物語 蒔絵箱入装飾表紙本  江戸前期写       列帖装 54冊
2  源氏物語 稲葉家旧蔵本  慶長頃写     包背装(くるみ表紙) 33冊
3  源氏物語 龍文刷外題升形本  江戸前期写 伝一乗院尊覚等寄合書
                              列帖装 54冊
4  源氏物語 墨色表紙本  寛文延宝頃写           列帖装 8冊
5  源氏物語(断簡):薄雲巻  鎌倉時代中期写 伝藤原為家筆   軸装 1幅
6  源氏物語 須磨巻抜書  江戸中期写             軸装 1軸
7  源氏物語 須磨 附帚木巻残簡  鎌倉後期写 伝冷泉為相筆 列帖装 1冊
8  源氏物語 賢木  室町初期写               列帖装 1冊
9  源氏双六 袖珍本  江戸後期刊              袋綴 28冊
10 源氏物語 越国文庫本  室町後期写           列帖装 49冊
(参考)源氏物語 澪標  江戸中期写         未装幀列帖装 3くくり
11 源氏物語 永正八年奥書本  江戸前期写       折紙列帖装 44冊
12 源氏五十四帖絵巻 伝狩野探幽図 幽遠斎模写  天保二年(1831)写
                                巻子 3軸
13 源氏物語系図 巣守三位本  室町末期写           折本 1帖
14 源氏物語湖月抄  北村季吟著 延宝元年(1673)跋      袋綴 11冊
15 源氏物語 竹屋光忠奥書本  享保頃写          列帖装 54冊
16 色紙源氏(源氏物語梗概)  江戸初期写            袋綴 1冊
17 源氏小鏡  江戸前期写                   巻子 1軸
18 源氏物語須磨抜書  江戸前期写 伝梶井宮筆         巻子 1軸
19 源氏物語(断簡):賢木巻  室町後期写 伝聖護院満意僧正筆   切 1点
20 源氏物語 伝嵯峨本古活字版  慶長中刊          袋綴 12冊
21 (絵入)源氏物語 山本春正編 承応3年(1654)刊        袋綴 60冊
(参考)源氏物語 奈良絵本  江戸時代前期写          列帖装 2冊
22 (絵入)源氏物語  寛文頃刊                袋綴 30冊

  なお、10参考、17、19は個人蔵

解題

I 表紙の意匠 (付)箱

 表紙は、典籍との出会いにおいて、通常最初に触れる部分である。書物の顔・書物
の玄関口とも言えるこの箇所は、見る者の印象を大きく左右するがゆえに、当然制作
者もしくは注文者の熱意や着想、趣味が反映し、そして財力も注がれる。1から4ま
では、すべて江戸前期に作られた源氏物語であるが、それぞれに凝った意匠を見せ
る。たとえば、各巻ごとにその内容をあらわす金泥下絵を描き(1)、蓮華唐草艶刷
藍表紙に金銀泥海賦文様の外題を押す(2)。背の部分までつつんだ包背装(くるみ
表紙)であるところもおもしろい。あくまで瀟洒な表紙(3)、墨色地に赤の外題が
時代の古びを感じさせない意匠の鮮烈さ(4)など、豊かな個性に心ひかれよう。な
お書物全体を納める外箱にも、しばしば高い評価が与えられる。蒔絵・螺鈿・飾り金
具の漆塗り箱は繊細華麗であり(1)、また大名稲葉家の紋所を示して古雅質実の雰
囲気を湛える(2)。

 1  源氏物語 蒔絵箱入装飾表紙本  江戸前期写 列帖装54冊
    几帳面取りの漆塗けんどん箱、蓋裏および箱側面三方に金銀蒔絵の菊・
    薄・撫子の絵
    縹色地に金泥・金箔にて当該巻の内容にちなむ下絵を施した表紙

 2  源氏物語 稲葉家旧蔵本  慶長頃写 包背装(くるみ表紙)
   33冊(54巻合冊)
    漆箱蓋表に「折敷に三文字」の紋(淀藩稲葉家か)
    表紙中央に、布目紙に金銀泥で細密な海賦模様を描いた題簽
    印記:月明荘

 3  源氏物語 龍文刷外題升形本  江戸前期写 伝一乗院尊覚等寄合書
   列帖装54冊
    薄藍にて鱗形、市松、七宝つなぎ等を刷り出し金銀泥の下絵を施した
    古雅な表紙

 4  源氏物語 墨色表紙本  寛文延宝頃写 列帖装8冊

II 本の大小

現在のA版B版、あるいは新書版と言うような書物の規格が、やはり古典籍の世界
にもあり、写本では四半本(大体A5版くらい)・六半本(一辺16糎ほどの正方
形)を標準とする。しかしこれらの規格からはずれる古典籍も勿論存在し、薄雲巻断
簡(5)は縦30糎に及ぶ堂々の大四半本、伝藤原為家筆鎌倉時代の貴重な資料であ
り、河内本系統の本文を示す。この時代の大型四半本は、多くの場合青表紙本系では
なく河内本系の本文を持ち、書物の規格と本文系統とがある程度の関連を見せてい
る。室町時代初期の賢木巻(8)も大ぶりの写本で、こちらは青表紙本。標準的な六
半本である鎌倉時代後期写の須磨巻(7)と、普通の巻子本の1・5倍ほどもある須
磨巻抜書(6)や、源氏物語にちなむ遊び道具の袖珍本(9)とを比較されたい。

 5  源氏物語(断簡):薄雲巻  鎌倉時代中期写 伝藤原為家筆 軸装1幅
    河内本

 6  源氏物語 須磨巻抜書  江戸中期写 軸装1軸

 7  源氏物語 須磨 附帚木巻残簡  鎌倉後期写 伝冷泉為相筆
   列帖装1冊
    表紙は墨流し地に金銀泥の霞引、切箔・野毛を撒く、外題なし

 8  源氏物語 賢木  室町初期写 列帖装1冊

 9  源氏双六 袖珍本  江戸後期刊 袋綴28冊(56巻合冊)
    五四巻大意目録各一巻、附「源氏双六うちやうの事」

III 装幀のいろいろ

 古典籍のさまざまな装幀のうち、平安時代の物語にふさわしい雰囲気を備えている
のは、料紙を重ねて二つ折りし(こうして出来た紙の集まりを「くくり」と呼ぶ)、
その「くくり」を集めて糸綴じにした列帖装(10)である。「くくり」の段階の資
料とあわせて展示した。料紙を上下に折ってから「くくり」を作成すると、折り紙列
帖のやや稀な装幀になる(11)。横に広げて読みあるいは鑑賞するためには、巻子
本(12)・折本(13)が便利である。和古書の最もありふれた装幀は袋綴(線装
とも言う)であり、源氏物語注釈書中最も流布したのが湖月抄だから、袋綴じの湖月
抄はあまりに平凡と言える。しかし特に薄く漉いた雁皮紙を用いる湖月抄(14)は
珍しい。普通の紙(楮紙)を使ったものとは厚さが断然異なるのが、よくおわかりい
ただけよう。薄様刷1冊に柏木・横笛・鈴虫・夕霧・御法以下8巻分が収まり、普通
の紙(楮)使用本は鈴虫・夕霧・御法3巻分だけでほぼ同じ厚さになる。

 10 源氏物語 越国文庫本  室町後期写 列帖装49冊
    帚木、空蝉、明石、初音、手習を欠く
    印記:越国文庫(福井松平家)、図書寮、出黌
    (参考)源氏物語 澪標  江戸中期写 未装幀列帖装3くくり

 11 源氏物語 永正八年奥書本  江戸前期写 折紙列帖装44冊(49巻合冊)
    桐壺、夕顔、賢木、早蕨、蜻蛉を欠く

 12 源氏五十四帖絵巻 伝狩野探幽図 幽遠斎模写  天保二年(1831)写
   巻子3軸

 13 源氏物語系図 巣守三位本  室町末期写 折本1帖

 14 源氏物語湖月抄  北村季吟著 延宝元年(1673)跋
   袋綴11冊(60巻合冊)
    献上本(薄様刷特装)
    注釈五四巻、発端・系図・表白・雲隠説各一巻、年立二巻
    印記:雲邨文庫

IV 料紙の贅沢

 古典籍の中には、表紙のみならず本文料紙にも趣向を凝らすものがある。天地に金
界を施し、薄緑色で塗りつぶす特異な装飾(15)が目を引く。この部分、実は鍮泥
を使ったらしく、当初は金色燦爛たる美麗な典籍であったろう。色変わり料紙に雲母
で下絵を刷った梗概書(16)、墨流し料紙にゆったりと写された源氏小鏡(1
7)、金銀泥の下絵巻子本(18)、藍と紫の雲紙断簡(19)など、制作者の思い
入れがどの書物からも伝わってくる。なお(19)は室町時代後期の巻子本の切で、
河内本系統の本文を持つところがおもしろい。

 15 源氏物語 竹屋光忠奥書本  享保頃写 列帖装54冊
    朽葉色地に寿字・宝尽しの銀襴表紙は後補
    本文料紙天地約三糎の所に金界を引き、その上下を薄緑で塗りつぶす
    特異な装飾
    印記:村井氏蔵(村井順)

 16 色紙源氏(源氏物語梗概)  江戸初期写 袋綴1冊
    桐壺から篝火を存す

 17 源氏小鏡  江戸前期写 巻子1軸
    墨流し料紙

 18 源氏物語須磨抜書  江戸前期写
   伝梶井宮筆 巻子1軸
   本文料紙は間似合
   印記:嶋氏

96_18imagej68


 19 源氏物語(断簡):賢木巻  室町後期写 伝聖護院満意僧正筆 切1点
    雲紙

V 版本の力

 一字一字手で写す写本は当然大量生産にはむかず、したがって源氏物語のような大
部の作品はもとより、小さな歌集・物語であっても、その経済的価値はすこぶる高い
ものであった。ところが江戸時代初期以降、わが国の古典文学が印刷され始めると、
ある程度の数量を制作することが可能になり、現在よりは勿論高価であるにせよ、広
い範囲の人々の手に入りやすくなった。そうした印刷物のうち、最初期の一つであ
り、本阿弥光悦風の字体を用いて作られたのが伝嵯峨本源氏物語(20)。典籍全体
にあふれる品格は、慶長文化の高さを示す。本文に新しく絵を添えて親しみやすくし
た版本(21)が出版されると、その影響はきわめて強く、これにならって豪華な奈
良絵本も作られ(図柄の一致するところに注目)、さらに簡便な小型本が続く(2
2)。この小型本を愛読したのが与謝野晶子であり、夏目漱石もまたこれを所蔵して
いた。版本の力はなかなかに大きい。

 20 源氏物語 伝嵯峨本古活字版  慶長中刊 袋綴12冊
    平仮名交じり、連続活字使用。慶長初年刊の10行本に続く二番目のもの
    表紙は刈安無地(胡蝶)、他は赤香色無地
    印記:瀬能蔵書、飯山宮之印、臨野堂文庫

 21 (絵入)源氏物語  山本春正編 承応3年(1654)刊 袋綴60冊
    附 系図、山路の露、引歌各一巻、目案三巻
 (参考)源氏物語 奈良絵本  江戸時代前期写 列帖装2冊

 22 (絵入)源氏物語  寛文頃刊 袋綴30冊(60巻合冊)
    附 系図、山路の露、引歌各一巻、爪印三巻
    印記:芦沢蔵書、尚友亭

2002年7月 5日 (金)

第95回展示 西洋古版日本地図展

第95回展示 西洋古版日本地図展
期間:2002年7月5日(金) ~ 7月31日(水)

95pos1

テイセラ「日本図」(オルテリウス『地球の舞台』より)

「西洋古版日本地図展」開催にあたって

   文学部教授 石田千尋

  今回、鶴見大学図書館が所蔵するヨーロッパで刊行された古地図の中から日本地図を厳選し展示します。
   1298年、マルコ・ポーロが『東方見聞録』の中で日本を紹介して以降、日本はさまざまな形に想像され、西洋の地図上に描かれました(1・2・3)。その後、1543年ポルトガル人が日本にやってくると、ポルトガル商人や宣教師らを通して日本に関する地理的情報は次第に地図上に姿を見せてきました。しかし、初期のものはポルトガル人の知り得た関西近辺までで、関東以北は未知なる世界でした(4・5)。1595年、オルテリウスによって発行されたルイス・テイセラの本州・九州・四国がほぼ正確な対比で描かれた「日本図」(6)(日本の「行基図」(7)を基にしていました)によって、西洋の印刷された日本地図が新時代を迎えたといえます(8)。しかし、17世紀になると必ずしも正確とはいえない様々な情報が加えられ、日本図は変形されながら継承されていきました(9・10・11・12)。1728年のショイヒツァー「日本図」(13)は、17世紀末にケンペルが日本から持ち帰った日本図(14)を基に作成されたものでした。それは、あまり正確なものではありませんでしたが、その後の日本地図に大きな影響を与えつづけました(15・16・17・18・19)。18世紀後半以降には日本近海を航行するヨーロッパ船が多くなり、新発見の報告書から日本地図も正確さが加えられていきました(20・21)。1840年、長崎の出島商館医であったシーボルトが帰国後出版した日本地図によって、ヨーロッパの地図学に残されていた神話や誤謬が除かれ、西洋における日本の地理的形状には近代的な基盤が与えられることになったのです(22)。
 今回展示します16世紀から19世紀に及ぶ西洋古版日本地図を通して、ヨーロッパ各国・地域、各時代における地理上の「日本」認識のありさまと、地図を媒介とした日本と西洋との文化交流の諸相をご覧頂ければ幸いです。

(註)本文中の括弧内の数字は展示品番号です。
 

展示リスト  

1.ヴァルトゼーミュラー「インドシナ半島と大韃靼図」
  (プトレマイオス『世界地理書』より)
   [ストラスブルク 1522年頃]  木版  28.8×45.9cm

2.ボルドーネ「日本図」(『世界島嶼誌』より)
   [ベニス 1528年]  木版  8.4×14.5cm

3.ミュンスター「新世界図」(『世界誌』より)
  [バーゼル  1552年]  木版  25.5×33.9cm

4.オルテリウス「アジア図」(『地球の舞台』より)
  [アントワープ 1570年]  銅版筆彩 37.0×49.4cm

5.ファン・ラングレン「東アジア図」(ファン・リンスホーテン『東方案内記』より)
   [アムステルダム 1596年] 銅版 38.6×52.6cm

6.テイセラ「日本図」(オルテリウス『地球の舞台』より)
   [アントワープ 1595年] 銅版筆彩 35.4×48.2cm

7.行基「大日本国図」(洞院公賢編『新版拾介抄』より)
  [京都 風月荘左衛門 江戸時代前期(17世紀後期)] 木版 21.7×35.6cm

8.ホンディウス「日本図」(『新地図帖』より)
   [アムステルダム 1606年] 銅版筆彩 34.1×44.4cm

9.ヤンソン「日本および蝦夷図」(『新地図帖』より)
   [アムステルダム 1658年] 銅版筆彩 45.4×54.9cm

10.タヴェルニエ「日本図」(『旅行記集』より)
   [パリ 1679年] 銅版 21.2×31.8cm

11.マレ(マネソン=マレ)「日本図」(『世界誌』第2巻より)
   [パリ 1683年] 銅版筆彩 13.8×9.7cm

12.サンソン「日本図」(『アジア地図帖』より)
   [パリ 1683年] 銅版筆彩 18.5×23.8cm

13.ショイヒツァー「日本図」(ケンペル『日本誌』第2版より)
   [ロンドン 1728年] 銅版 46.0×53.0cm

14.石川流宣「本朝図鑑綱目」
   [江戸 相模屋太兵衛 貞享4年(1687)]  木版筆彩  59.4×131.8cm

15.ティリオン「日本帝国図」(サルモン『世界旅行記』第2巻より)
   [アムステルダム 1734年] 銅版筆彩 24.5×31.7cm

16.ベラン「日本帝国図」(シャルルヴォワ『日本の歴史および地誌』第1巻より)
   [パリ 1736年] 銅版 41.7×53.9cm

17.ル・ルージュ「日本および朝鮮図」(『新携帯地図帖』より)
   [パリ 1748年] 銅版筆彩 20.6×27.5cm

18.ロベール「日本帝国図」(『世界地図帖』より)
   [パリ 1750年(1757年)]  銅版筆彩 48.3×53.6cm

19.エロースミス「日本帝国図」
   [ロンドン 1807年] 銅版筆彩 23.5×39.8cm

20.トムソン「朝鮮および日本図」(『新普遍地図帖』より)
   [エディンバラ 1815年] 銅版筆彩 59.0×61.9cm

21.ウォーカー「日本帝国図」
   [ロンドン 1835年] 銅版筆彩 38.9×31.9cm

22.シーボルト「日本図」(『日本』複製版より)
   [ライデン 1840年] 石版 59.4×79.0cm

解説    
1.ヴァルトゼーミュラー「インドシナ半島と大韃靼図」 (プトレマイオス『世界地理書』より)   [ストラスブルク 1522年頃]  木版  28.8×45.9cm 実際にはプトレマイオスの世界像はインドシナ半島までで終わるが、ヴァルトゼーミュラーは、それにマルコ・ポーロによる韃靼とジパングの情報を追加して描いた。 

2.ボルドーネ「日本図」(『世界島嶼誌』より)   [ベニス 1528年]  木版  8.4×14.5cm これはヨーロッパで単独の日本地図として初めて印刷されたものである。この15年後に最初のヨーロッパ人であるポルトガル人が日本にやってくる。

95p2


3.ミュンスター「新世界図」(『世界誌』より)  [バーゼル  1552年]  木版  25.5×33.9cm このミュンスターの地図では、マルコ・ポーロが述べた7448の島々がある日本(Zipangri)は、アジア大陸より北アメリカに近く描かれている。

4.オルテリウス「アジア図」(『地球の舞台』より)  [アントワープ 1570年]  銅版筆彩 37.0×49.4cm このポルトガルから情報を得て描かれたオルテリウスの地図では、日本は関西を少し越えたところで終わっており、豊後は本州にあり、鹿児島は島として描かれている。日本は直立しているように見えるが、緯度線より東西に横たわっていることがわかる。

5.ファン・ラングレン「東アジア図」(ファン・リンスホーテン『東方案内記』より)   [アムステルダム 1596年] 銅版 38.6×52.6cm これは、オランダ商人リンスホーテンがポルトガルから情報を得て作成した地図であり、日本はエビ型をして、関東は南に伸び、東北地方はまだ存在していない。

6.テイセラ「日本図」(オルテリウス『地球の舞台』より)   [アントワープ 1595年] 銅版筆彩 35.4×48.2cm この図はポルトガル人地図製作者ルイス・テイセラによるものであり、当時最新の日本地図としてオルテリウスの地図帳に採用された。日本の「行基図」(7)を基にしており、本州・九州・四国がほぼ正確な対比で描かれている。この地図をもって西洋の日本地図の新時代が始まったといわれる。

7.行基「大日本国図」(洞院公賢編『新版拾介抄』より)  [京都 風月荘左衛門 江戸時代前期(17世紀後期)] 木版 21.7×35.6cm  江戸時代初期より以前の日本図は「行基図」あるいは「行基式日本図」とよばれ、日本全体の輪郭が丸みを帯びた線で表現され、奥羽地方が大きくふくらんだ形で描かれていることや、日本が東西に細長く描画されていることなどがその特色としてあげられる。本図は、6テイセラ「日本図」の基になった地図の系統をひくものである。 

8.ホンディウス「日本図」(『新地図帖』より)    [アムステルダム 1606年]     銅版筆彩 34.1×44.4cm   この図は、6テイセラ「日本図」に拠って描かれたものである。

95p8


9.ヤンソン「日本および蝦夷図」(『新地図帖』より)   [アムステルダム 1658年]    銅版筆彩 45.4×54.9cm   この地図には、オランダ人フリースが1643年におこなった蝦夷と千島列島への探検の成果があらわされている。しかし、フリースが千島列島や樺太を蝦夷の一部と考えたため、この後 150年間、ヨーロッパの地図上で、蝦夷は実際よりずっと大きいものとして描かれた。

95p9


10.タヴェルニエ「日本図」(『旅行記集』より)   [パリ 1679年] 銅版 21.2×31.8cm 宝石商タヴェルニエ自身は、中国までしか行っていないが、バタヴィアで収集した情報をもとに日本図を描いている。日本の形については、過去のカトリック派の手本を採用しており、東日本の方が西日本より目立って大きい。本州の形は全体として少し不恰好な感じである。

11.マレ(マネソン=マレ)「日本図」(『世界誌』第2巻より)   [パリ 1683年] 銅版筆彩 13.8×9.7cm この図は、9ヤンソン「日本および蝦夷図」同様、関西と関東は西から東へと伸びており、また、後の13ショイヒツァー「日本図」のように東北地方は直角に北をむいており、他には見られない独自の型をもっている。四国および九州は非常に簡略化されてきている。 

12.サンソン「日本図」(『アジア地図帖』より)   [パリ 1683年] 銅版筆彩 18.5×23.8cm  この図は、9ヤンソン「日本および蝦夷図」に比べて本州が少し伸びて描かれ、蝦夷地に関してはフリースの発見はまるで無視されている。本州の南東にある小さな島々は9ヤンソン「日本および蝦夷図」では全て房総半島の南にあったが、サンソンは房総半島のまわりに置いている。

95p12


13.ショイヒツァー「日本図」(ケンペル『日本誌』第2版より)   [ロンドン 1728年] 銅版 46.0×53.0cm この図は、長崎の出島商館医ケンペルが日本で出た日本図(14)を基に作成したもので、ショイヒツァーによって出版された。東北地方は北に向いているが、ずんぐりした形になっている。この図はその後、類図を多く生み、ヨーロッパで流布した日本像の一つである。

14.石川流宣「本朝図鑑綱目」   [江戸 相模屋太兵衛 貞享4年(1687)]  木版筆彩  59.4×131.8cm  ケンペルが日本からヨーロッパへ持ち帰った四つの日本の木版地図の一つ。ケンペル死後、ショイヒツァーはこの地図を手本とし、松前を島として描き、能登半島や四国の形、諸国名の漢字表記、海岸線の形成などに役立てた。

15.ティリオン「日本帝国図」(サルモン『世界旅行記』第2巻より)   [アムステルダム 1734年] 銅版筆彩 24.5×31.7cm この図は、13ショイヒツァー「日本図」を手本として描かれたものである。しかし、ティリオンは能登半島の北に「蝦夷または蝦夷が島またはカムチャッカ」の一部を示した。

16.ベラン「日本帝国図」(シャルルヴォワ『日本の歴史および地誌』第1巻より)   [パリ 1736年] 銅版 41.7×53.9cm  この図は、13ショイヒツァー「日本図」を手本としたものであるが、作者ベランはいくつかの修正をおこなった。すなわち、西日本はわずかに南西から北東方向に向き、能登半島は西方向に傾いている。ベランの地図はこれ以降18世紀いっぱい大きな影響力を持ち続けた。

 17.ル・ルージュ「日本および朝鮮図」 (『新携地図帖』より)   [パリ 1748年]   銅版筆彩 20.6×27.5cm ル・ルージュの日本図は全体としてほっそりとしており、南西から北東に伸びる。ル・ルージュは、13ショイヒツァー「日本図」から九州・四国の形と島根・能登・房総および紀伊半島を取り入れた。

95p17


18.ロベール「日本帝国図」(『世界地図帖』より)   [パリ 1750年(1757年)]  銅版筆彩 48.3×53.6cm ロベールの地図は、陸奥湾を囲む津軽および下北半島の形をはっきりと描き、架空の松前島は省かれている。この形は19世紀に入っても影響を及ぼしていく。

19.エロースミス「日本帝国図」   [ロンドン 1807年] 銅版筆彩 23.5×39.8cm この図は、エロースミスが1790年版のセイヤー「日本図」に従って描いたものである。なお、セイヤー「日本図」は、18ロベール「日本帝国図」をもとにして、13ショイヒツァー「日本図」の情報を細部に盛り込んだものであった。

20.トムソン「朝鮮および日本図」(『新普遍地図帖』より)   [エディンバラ 1815年] 銅版筆彩 59.0×61.9cm この図は、2年前に作成されたジョーンズ「日本、朝鮮および韃靼図」に類似するものである。ジョーンズの地図は、1796-97年のブロートンや1805年のクルーゼンシュテルンの日本近海航行による発見の報告書に付けられた地図の影響がみられる。しかし、このトムソンの地図では、本州の海岸線や九州・四国・淡路島がずっと正確になっている。

21.ウォーカー「日本帝国図」   [ロンドン 1835年] 銅版筆彩 38.9×31.9cm ウォーカーの地図は、ジョーンズ「日本、朝鮮および韃靼図」と20トムソン「朝鮮および日本図」の改良部分を結びつけ、さらに鹿児島湾の桜島の形など若干改良を加えたものとなっている。 

22.シーボルト「日本図」(『日本』複製版より)   [ライデン 1840年] 石版 59.4×79.0cm  長崎の出島商館医シーボルトは、1826年、江戸で高橋景保より近代的測量に基づいて作成されたばかりの日本地図を入手した。シーボルトは日本側の取り調べにもかかわらずこの地図をヨーロッパに持ち帰り1840年1枚ものの地図として出版した。この出版により、日本近代の地図学の基礎が置かれたといえる。

参考文献     

・松本賢一編著『欧州古版日本地図集』十一組出版部、1943年。
・神戸市立博物館編『南波松太郎氏収集 古地図の世界』神戸健康教育公社、1983年。
・神戸市立博物館編『秋岡古地図コレクション名品展』神戸スポーツ教育公社、1989年。
・社団法人OAG・ドイツ東洋文化研究協会編集・発行『西洋人の描いた日本地図?ジパング からシーボルトまで 図録』1993年。
・神戸市立博物館編『古地図コレクション?神戸市立博物館?』神戸スポーツ教育公社、1994  年。
・鶴見大学図書館編集・発行『西洋古版日本地図』特定テーマ別蔵書目録集成11、1997年。
 

 

2001年11月27日 (火)

93回 2001/11/27~12/15 蔵書印の語るもの

第93回展示

蔵書印の語るもの

期間:平成13年11月27日(火)

~平成13年12月15日(土)

93poster


蔵書印の語るもの

「蔵書印は伝来を証する、いわば書物の履歴書である」(渡辺守邦・島原泰雄編『蔵書印提要』)。蓋し名言、誰の手からどのような道すじをたどって今ここにあるのかを教えてくれるのみならず、印に刻まれた文辞や印泥の選択や押し方のその一つ一つに、かつてこれを愛玩したであろう人の顔までもがあらわれる。横浜ゆかりの岡本閻魔庵用いる印は絵柄おもしろく、容貌はなはだ秀でざりし儒者安井息軒のそれは瀟洒にして雅――御亭主よりは『安井夫人』に描かれたるお佐代さんの風情、むしろ近からむか――、興は尽きない。

 さて蔵書印は書物流浪の諸相をも語る。明治維新によって基盤を失った各地の藩校から大量の典籍が放出され、あるいは愛書家の逝去にともなって珍書稀籍が次のあるじのもとへと移動するのは自然の数と言えよう。が、由緒正しき古寺名刹より離れし書物の、わが図書館のみならず世間一般にもすこぶる多きことは、一体どうしたものか。本を読まない、もしくは書物と引きかえにしたわずかな金銭の方をありがたがるお坊さまが一杯いらっしゃることの明々白々な証拠、でなければ幸い。

 蔵書印はまた、旧蔵者の息づかいをも生々しく伝える。博識の露伴がいかにも読みふけりそうな類書、『アララギ』の巨人斎藤茂吉の示す有職故実への関心、そして国学の大家本居宣長の手なれの本――実体希薄な電子情報の飛びかう現代こそ、素朴で確かな手ごたえが、学問のためにも人間の真に豊かなくらしのためにも必要ではあるまいか、と妙な理窟を野暮にこねまわすつもりはない。蔵書印が書物の世界の楽しみを深める名脇役であること、それを言えば足りている。

文学部教授  高田信敬

展示リスト ( )=旧蔵者

I 公家の文華

1.源概集(鷹司家)<参考>未雨秘抄

2.菅家後集(正親町家)<参考>八幡御幸次第

3.蔵人頭奏慶従事次第(滋野井家)<参考>門号類聚

4.醍醐寺雑事記(山科家)

5.後光厳院御記(烏丸家)<参考>貫首秘抄

II 名刹古社の旧蔵

6.万葉代匠記(青蓮院)<参考>百人一首

7.侍姉百首(曼殊院)

8.新続古今集(西本願寺)

9.公事根源集釈(増上寺)

10.山城国風土記(賀茂別雷神社)

III 大名藩校の学問

93fujinami

11.改元記(松平定信他)

12.和漢年契(水野中央)

13.和蘭字彙(大聖寺藩藩校)

14.大学衍義(小倉藩藩校他)

15.新任弁官抄(前田尊経閣)

IV 文林芸苑の人々

16.新猿楽記(大田南畝)

17.古今要覧稿(幸田露伴)<参考>唐白行簡賦残巻(複製)碗久物語(原稿)

18.江家次第(斎藤茂吉)

19.源氏小鏡(小堀鞆音)

20.竹取物語(幸野楳嶺)

V 学者の手沢

21.六百番歌合(本居宣長)

22.四書釈地続補(安井息軒)

23.和歌留(佐佐木信綱)<参考>国文秘籍解説

24.大和物語(高野辰之)

25.将門記(チェンバレン)<参考>詠歌大概聞書

VI 愛書家の面影

26.埋麝発香(岡本久次郎)

27.源氏物語紹巴抄(大島雅太郎)

28.文選(小汀利得)

29.伊勢物語系図(前田善子)<参考>職原抄竊考

30.仏制六物図(三井高堅)

図書館所蔵の書籍のみにては十分な展示かなわず、文学部中川博夫教授に
協力を仰いだ。記して謝意を表す。

2001年10月 2日 (火)

貴重書ギャラリー:5 和歌と物語

貴重書ギャラリー:5 和歌と物語

kch-41
貫之集断簡
  伝寂然筆・藤原定家書入
  村雲切 平安時代末期写
kch-42
師輔集断簡
  伝平業兼筆
  春日切 鎌倉時代初期写
kch-43
古今和歌集
  零本 鎌倉時代後期写
kch-44
風雅和歌集断簡
  奏覧本 尊円親王筆
  南北朝時代写
kch-45
俊成卿九十賀和歌
  江戸時代中期写
kch-46
伊勢物語
  藤原定家筆本模写
  室町時代後期写
kch-47
源氏物語断簡
  河内本 伝藤原為家筆
  鎌倉時代中期写
kch-48
狭衣物語断簡
  伝阿仏尼筆 鎌倉時代後期写
kch-49
曽我物語
  蒔絵箱入 江戸時代初期写

kch-50
源氏物語双六
  付「うちやうの事」
  江戸時代後期刊

Copyright (C) Tsurumi University Library. All rights reserved.

貴重書ギャラリー:4 日本文学--古典籍の名筆-- 善本書影拾葉

貴重書ギャラリー:4 日本文学--古典籍の名筆-- 善本書影拾葉

kch-31
和漢朗詠集
  伝後京極良経筆
kch-32
源氏物語 須磨・付帚木残簡
  伝冷泉為相筆
kch-33
新勅撰和歌集
  伝後伏見院筆
kch-34
新選莵玖波集
 伝飛鳥井雅康・大内政弘筆
kch-35
伊勢物語
  近衛信尹筆
kch-36
古今和歌集
  契沖筆
kch-37
万葉集問答  田中道麿問・本居宣長答自筆原本
kch-38
対大己五夏闍梨法
  道正庵切 道元自筆
kch-39
千載和歌集  日野切
  藤原俊成筆
kch-40
異本平家物語 長門切
  伝世尊寺行俊筆

Copyright (C) Tsurumi University Library. All rights reserved.

貴重書ギャラリー:3 典籍東西の光彩 善本拾葉

貴重書ギャラリー:3 典籍東西の光彩 善本拾葉

kch-21
源氏物語 賢木、明石巻
  奈良絵本
kch-22
源氏物語
  蒔絵函入本
kch-23
源氏五十四帖絵巻 
伝狩野探幽原画幽遠斎模写
kch-24
駒競行幸絵詞
  狩野養信模写
kch-25
寛永行幸記(零本)
  古活字版 絵活字彩色
kch-26
西洋画引節用集(口絵)
kch-27
Japanese fairy tales (英訳) L.ハーン訳
kch-28
ミルトン『失楽園』(J.エヴァンス挿画)
kch-29
ミルトン『失楽園』(J.マーティン挿画)
kch-30
オリテリウス「東インド図」

Copyright (C) Tsurumi University Library. All rights reserved.

貴重書ギャラリー:2 名場面への招待 源氏物語絵とシェイクスピア劇絵

貴重書ギャラリー:2 名場面への招待 源氏物語絵とシェイクスピア劇絵

kch-11
源氏物語絵  空蝉巻
  奈良絵
  江戸中期写
kch-12
源氏大和絵鑑 花宴巻
  菱川師宣画
  貞享2年刊
kch-13
源氏物語   明石巻
  奈良絵本
  江戸前期写
kch-14
源氏五十四帖絵巻 篝火巻
伝狩野探幽原画幽遠斎模写
  天保2年写
kch-15
源氏小鏡   東屋巻
  明暦3年刊
kch-16
「ハムレット」R.ウェストール画
『ボイデル・シェイクスピア戯曲画集』 1804年頃刊
kch-17
「夏の夜の夢」H.フューズリ画
『シェイクスピア劇作品集』H.ステビング編 1828年頃刊
kch-18
「あらし」H.J.タウンゼント画
『シェイクスピア作品集』インペリアル版 C.ナイト編 1875-76年刊
kch-19
「冬物語」J.ギルバート画
『シェイクスピア文庫』 1879年刊
kch-20
「ウィンザーの陽気な女房たち」G.ロス画
『シェイクスピア戯曲集』H.ファージョン編 1939-40年刊

Copyright (C) Tsurumi University Library. All rights reserved.