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2003年10月23日 (木)

99 2003/10/23~11/19  古典籍の魅力~ドキュメンテーション学科開設に向けて~

第99回鶴見大学図書館特別展示    
古典籍の魅力~ドキュメンテーション学科開設に向けて~
  横浜市文化財特別公開事業
 平成15年10月23日(木)~11月19日(水)
 図書館 1階展示コーナー  

 2003/10/25  講演会:鎌倉時代書写 和漢朗詠集について  

演者:高田信敬文学部教授・図書館長 

展示場所 鶴見大学図書館 1階ホール展示期間

平成15年10月23日(木)~11月19日(水) 

日曜祝祭日は休館開催時間

平日 9:00~20:00土曜日 9:00~16:00

大学祭期間中の10月25日(土)、26日(日) 9:00~18:00

講演会 日時 10月25日(土) 15:00~16:00 (14:30開場)

場所 鶴見大学図書館地下1階ホール演題 

鎌倉時代書写 和漢朗詠集について演者 

高田信敬(タカダノブタカ)文学部教授・図書館長

会場内では飲食禁止、禁煙です。

共催、後援 鶴見大学紫雲祭、横浜市教育委員会、和歌文学会、紫式部学会

一般公開 講演会、期間中の展示を無料にて一般公開しています。

図書館カウンターにてお名前をご記入ください。

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ここに、本があることの不思議 
      文学部教授 高田信敬
   遙か千三百年の昔、今となっては名も知れぬ、しかし技に優れた写経生がいた。写経は一日中正座の過酷な仕事である。何日も泊まり込み、きめられた枚数をこなす。浄衣は薄く、上司の小言はうるさい。一字でも間違えようものなら即罰金、僅かの報酬から天引きされる。そして墨の中に涙も混じっていそうな、でも仕上がりはあくまで秀麗な写経が生まれた。月日は流れて五百年、丹念に古写経を集める坊さんがいた。一巻また一巻と積み重ね、ついに六百巻全部が揃う。すべての巻に加えられた朱は、自分がこの時代に生きたあかし、とその坊さんには思えた。さらに七百年がたち、鎌倉の剛健な気風も遠く、青丹よし奈良の都のにぎわいは夢と薄れ、六百巻の大半は散逸した。けれども、わたしたちは今、確かに、疑いもなく確かに、彼らの残した五つの巻物を目にしている。手で触れ、書物の匂いをかぐことさえ出来る。あたりまえのようで、なんと不思議なことだろう。横浜市指定文化財の永恩具経だけではない。歌の本、いくさの話、ちょっと難しい漢文まで、すべての古典籍が、人間の命の何倍もの間、この世の移り変わりを静かに眺めてきたのである。そして書物から無限の物語を聞くことは、けっして不可能ではない。    勿論書物は、一般に人間ほどおしゃべりではない。本に語らせ、古典籍の声を正確に聞き取るためには、専門的な技術と知識がいる。いささか耳遠い言葉を使えば「書誌学」が必要なのである。来年ドキュメンテーション学科が開設され、この書誌学を専ら学ぶコースが置かれることを記念して、様々な典籍を展示をする理由のひとつはここにある。書物が存在する、その単純明快な、そして確実なことがらから、大きな意味を引き出す学問体系が、国文学・国語学・歴史学・思想史など人文系諸学に対して果たす役割は大きい。
   と言うややこしい話はさておき、とにかく書物を眺めていただきたい。迫力のある筆跡、目のさめるほどあざやかな挿絵、滋味あふれる装幀、読めばおもしろく、読まなくたって楽しい。これほど奥深く、趣味として格好のいいものが他にあるだろうか、と本好きは思うのだが・・・・・
    平成癸未応鐘下浣
   ※解題は高田が担当したが、本学名誉教授池田利夫博士のお仕事のお世話になったところがある。また、中川博夫(◆18)・山西明(○35・○37)・石澤一志(◆10)各氏にも助力を仰いだ。記して深く謝意を表する。
 
展示内容      展示資料解題ほか○=全期間展示
◇=前期(10月23日~11月1目) ◆=後期(11月4日~11月19目)
1 古写経○ 1 大般若経 巻一七六~一八〇  天福元年(1233)興福寺永恩加点識語    (永恩具経、横浜市指定文化財) 奈良時代写 巻子5軸
○ 2 賢愚経 巻九 大聖武・大和切  奈良時代写 額装1葉
○ 3  金銀交書経断簡(中尊寺経) 平安時代写  軸装1幅
○ 4  対大己五夏闍梨法断簡 道正庵切(道元自筆) 寛元2年(1244)写    額装1葉 画像 
◇ 5  大般若経 巻二三三  永徳3年(1383)大乗寺奉納銀界経     南北朝時代刊 折本1帖
◆ 6 仏制比丘六物図 真乗院了珍跋(五山版)  室町時代中期刊 袋綴1冊 
2 和歌◇ 7 古今和歌集断簡(伝藤原伊行筆) 平安時代後期写 軸装1幅
◆ 8 千載和歌集断簡 日野切(藤原俊成筆) 平安時代末期写 軸装1幅
◇ 9  拾遺和歌集断簡  筑後切(伏見天皇筆) 鎌倉時代後期写 軸装1幅
◆10  風雅和歌集断簡(尊円親王筆 奏覧本) 南北朝時代写 台紙張1葉
◇11  新勅撰和歌集(伝伏見天皇筆)  鎌倉時代末期写  列帖装1冊
◆12  新続古今和歌集(西本願寺旧蔵) 江戸時代前期写 列帖装2冊
○13  万葉代匠記序(契沖自筆稿本)  元禄元年(1668)頃写 巻子1軸
○14  二十巻本歌合断簡 二条切(伝藤原俊忠筆) 平安時代後期写 軸装1幅
◇15  類字名所和歌集  江戸時代前期写 列帖装8冊
◆16  六百番歌合 古活字版  寛永末年刊 袋綴8冊
◇17  俊成九十賀屏風和歌  元禄頃写 折本1冊
◆18  白河殿七百首(曼殊院旧蔵) 江戸時代初期写 袋本1冊
◇19  袖中抄(富岡鉄斎旧蔵)  慶安4年(1651)刊 袋綴20冊
◆20  貫之集断簡 村雲切(伝寂然筆) 平安時代末期写 台紙張1葉
○21  三十六歌仙絵短冊  貞享頃写 折帖1冊 <個人蔵>
○22  和漢朗詠集(伝後京極良経筆、横浜市指定文化財)  鎌倉時代写    巻子2軸 
3 物語 ○23  竹取物語断簡  室町時代初期写 台紙張1葉 <個人蔵>
○24  伊勢物語(近衛信尹筆) 江戸時代初期写 列帖装1冊
○25  伊勢物語(定家筆本の模写本) 室町時代写 列帖装1冊
◇26  宇津保物語(奈良絵本巻子改装) 江戸時代前期写 巻子1軸
◆27  宇津保物語 古活字版  江戸時代初期刊  袋綴2冊
○28  源氏物語(伝二条為相筆) 鎌倉時代末期写 列帖装1冊
◇29  源氏物語抜書(中院通茂筆) 江戸時代中期写 巻子本1軸
◆30  源氏物語 桐壺(三条西実隆奥書) 室町時代後期写 列帖装1冊
◇31  狭衣物語 古活字版  元和9年(1623)刊 袋綴8冊
◆32  浜松中納言物語(祖型本) 江戸時代初期写 袋綴1冊
〈番外〉 源氏物語屏風(大学祭期間中のみ特別展示) 
4 軍記○33  異本平家物語断簡 長門切(伝世尊寺行俊筆) 鎌倉時代末期写    台紙張1葉
○34  平家物語  零本  室町時代末期写 袋綴2冊
○35  曽我物語  江戸時代初期写 袋綴12冊
○36  義経記 零本 古活字版丹緑本  元和寛永中刊 袋綴1冊 <個人蔵>
○37  明徳記(寛永九年版) 寛永9年(1632)刊 袋綴3冊 
5 漢籍○38  文選 古活字版  寛永2年(1625)刊 袋綴31冊
◇39  大慈寺八景詩歌断簡 畠山切(伝二条良基筆) 南北朝時代写    台紙張1葉 <個人蔵>
◆40  風俗通 残簡  元大徳9年(1305)刊 粘葉装1冊
○41  白氏文集 銅活字版  明正徳8年(1513)刊 袋綴24冊 

解題 

I 古写経 

○ 1 大般若経    巻一七六~一八〇    天福元年(1233)  興福寺永恩加点識語  (永恩具経、横浜市指定文化財)  奈良時代写 巻子5軸

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○ 1 大般若経 巻一七六~一八〇 天福元年(1233)興福寺永恩加点識語(永恩具経、横浜市指定文化財)       奈良時代写 巻子5軸

   紙高25.3糎の黄麻紙を継ぐ。この写経は永恩具経と呼ばれ、興福寺の蔵司永恩が、鎌倉時代前期の貞永・天福(1232~33)前後、かねて蒐集していた天平書写大般若経600巻に、全巻にわたって朱の句点を施し、一具として自らの氏神である河内国玉祖神社に奉納したもの。神仏分離に際して薗光寺竹之坊に引き取られたことなど、田中塊堂『古写経綜鑒』に詳しい。巻子本を一時折本に改装した形跡を見るが、現在再び濃朽葉色紙表紙と撥型木軸の原装風な巻子本に戻されている。同じ永恩具経の中には、天平の書写奥書を残す巻々があり、『一誠堂創業九十周年記念即売会目録』筆頭にある巻第一八には「天平十三年(742)歳次辛巳七月十八日奉為四恩 写檀越/下村主広麻呂」と見える。本学所蔵の5軸すべてにも朱の句点があり、巻一七六より一七九までには巻末に朱で「句切了永恩」と記されるのみだが、巻一八〇には同じく朱書で、「天福元年癸巳五月廿六日興福寺上階馬道以朱(?)為第二伝(?)句切了 永恩生年六十七」とある。こうした加点奥書は10巻ごとに記すのを原則としたらしいが、巻五九一には「貞永二年癸巳」の朱書があったという。貞永2年(1233)は4月15日に天福に改元されているので、永恩の加点が巻序に従ったのでないことを知る。永恩具経は40巻ほどの遺存が確認され、天平経特有の雄渾にして秀麗な書法は見事であり、特に5巻が連続して揃っているのは極めて貴重である。

○ 2 賢愚経 巻九 大聖武・大和切  奈良時代写 額装1葉
 縦27.4、横7.8糎の香抹を漉き込んだ具引き料紙(所謂荼毘紙)に独特の写経体で賢愚経巻九善事太子入海品第三七を3行書写。写経は1行17字を定式とするが、聖武天皇を伝称筆者とする掲出の断簡では各行13字、その堂々たる書きぶりが異彩を放つ。「大聖武」と呼ばれるゆえんである。古筆手鑑にはこれを巻頭に押すのが故実。

○ 3  金銀交書経断簡(中尊寺経) 平安時代写  軸装1幅
 縦25.6、横50.2糎の紺紙に銀界(界高19.5、界幅約1.8糎)を施し、金銀泥にて交互に28行を書写した装飾経。紺紙に金泥または銀泥で経文を写した装飾経は、勿論断簡零墨と言えども確かに貴重であるが、必ずしも珍しくはない。しかし金銀交書経となると非常に少なく、単独に法華経・阿弥陀経を書写した例が二三知られ、組織的に金銀交書で大部の内典を写したものに至っては、中尊寺建立に当たり藤原清衡(1056~1128)が発願した所謂「中尊寺経」くらいであろう。掲出の断簡は、内容から密教部経典と推されるが、陀羅尼集経中に類似の文言をみるものの、確実な経題を特定出来なかった。仏典に詳しい方の教示を乞うところである。 桐箱入り、田中塊堂(1896~1976)の箱書「紺紙金銀交書経中尊寺経断巻」(蓋表)、「浪華法眼 塊堂題〔朱白文印〕」(蓋裏)。塊堂は古写経・古筆の先駆的研究者として多くの業績を残し、また仮名書家としても著名であった。

○ 4  対大己五夏闍梨法断簡 道正庵切(道元自筆) 寛元2年(1244)写 額装1葉
 対大己法と呼ばれる著述の自筆原本であり、現存6葉のうち、本学に2葉を蔵す。道元禅師が定めた『永平大清規』第二篇として書かれ、修行僧の、大己(先輩僧侶)に対する礼法を、日常の起居振舞に即して、62条にわたり説示されたものである。この断簡が道正庵切と呼ばれるのは、道元に随侍した俗弟子の木下道正が、帰国後京に薬舗を構えた庵(現在の京都市上京区道正町)に所蔵されていたとの伝えによるが、勿論定かではない。本書巻末識語に当る断簡が出光美術館蔵国宝手鑑『見ぬ世の友』に収められ、「于時日本寛元二年甲辰三月二十一日」なる年記と「道元(花押)」と署名までも見られるので、同じく自署を有する永平寺蔵国宝『普観坐禅儀』と並び、極めて稀な道元真筆墨跡の中で、自筆か否かを鑑定する上での根本真跡資料となっている。道元45歳、壮年期の筆である。 縦23.9、横14.4糎、斐紙の一面に白界6行を施し、第二四末より第二八までを記す。京都国立博物館所蔵国宝手鑑『藻塩草』所収の切の裏面。気迫の漲る道元の、典雅のうちに圭角を備え、鋭利、透徹、清澄の風韻漂う筆法。 

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◇ 5  大般若経   巻二三三  永徳3年(1383)    大乗寺奉納銀界経  南北朝時代刊     折本1帖

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◇ 5  大般若経 巻二三三  永徳3年(1383)大乗寺奉納銀界経  南北朝時代刊 折本1帖
 縦26.1、横9.4糎の折本、全52折。香色地に金銀切箔・霞引を施した表紙、その中央に「三百内四帙三」と墨書。後表紙長くして全体を包み込む帙型折本の形を原装のままに伝える。帙表に「大般若波羅蜜多経巻第二百三十三」と打ち付け書き、発装あるも紐を失う。見返しに「春翠文庫」(中島仁之助)の朱文印。 巻首に十六善神と釈迦説法の見返し絵、大量の経巻を背負うのは玄奘三蔵である。全巻に銀界を加え、装飾性を高めた摺経中の逸品。素朴で力強い書風を用いた春日版風の出版、尾題下に「開板明隆」と刻すが、他の部分と比べ墨付き悪く、埋木の可能性を否定しえない。やや摺り疲れのある版面ゆえ、本文刻成自体は南北朝の早い頃までさかのぼるか。 巻首に「池奥常住」、尾に「願主比丘尼宗室」「時永徳癸亥夏六月念八日也」「奉入大般若経 大乗寺」等の墨書あって永徳3年(1383)の奉納と知られる。

◆ 6 仏制比丘六物図 真乗院了珍跋(五山版)  室町時代中期刊 袋綴1冊
 縦27.8、横18.7糎の後補藍色無地紙表紙、外題なし。やや厚手の楮紙に毎半葉7行17字の力強い書風で印刷。図6面、版心に丁付「一(?二十九)」、ただし巻頭に丁付を持たない2丁があるので、全31丁。最終丁ウラに「此図印板」以下4行の了珍識語、その後に「板在南禅真乗院」と刻す。寛元4年(1246)泉涌寺にて出版された覆宋刊本が使用に耐えなくなったので、南禅寺真乗院の了珍が再刊を企てたものである。真乗院は大応派香林宗簡の塔頭。大東急記念文庫本の書入れから、明応4年(1495)以前の刻成と知りうるが、摺刷はいささか下り、室町時代末期であろうか。 六物とは僧侶必備の具六種を指し、律蔵にのべられたところを図で解説した書。古雅な味わいの五山版である。なお巻首の蔵書印は、近代篆刻の名手河合筌廬の作、新町三井家にあって古典籍を愛好した三井高堅の所用。これも書物の魅力のひとつと言えよう。
 II 和歌

◇ 7 古今和歌集断簡(伝藤原伊行筆) 平安時代後期写 軸装1幅
 金箔散らし斐紙。縦21.2、横13.8糎。手沢の状態から見て、列帖装丁ウラ面か。巻五秋下293・294を1面5行に写した典雅な古筆。 畠山牛庵および古筆了任の極札を添え、いずれも藤原伊行(?~1175)の手とするが、伊行筆跡たる戊辰切・葦手下絵和漢朗詠集と比較して明らかに別筆、むしろ伊行より若干古い、しかも相当な書き手のものではなかろうか。品のよい装飾料紙と行間をゆったりとった名筆ぶり、伝藤原公任筆公忠集切と料紙・筆跡共に似るが、現在のところツレは管見に及ばない。博雅の君子の垂教を乞う。

◆ 8 千載和歌集断簡 日野切(藤原俊成筆) 平安時代末期写 軸装1幅
 縦21.5、横14.8糎の斐紙。料紙欠損少々あって綴穴を確認しにくいが、列帖装の丁オモテ面か。巻一九釈教1235~1237を写し、第二首目「あか□き」は料紙の欠損。 藤原俊成(1114~1204)の古筆切中、自ら撰した千載集の断簡ゆえにひときわ珍重される。現在巻一〇以下のみが存し、上下二帖のうち下帖分の分割。『明月記』天福元年(1233)7月30日の「家本之下帖」と関係あるか。1帖140丁ほどと推定(田村悦子「藤原俊成自筆千載集断簡日野切の考察とその集成」『美術研究』233)され、その半分程度が発見されている。烏丸光広(1579~1638)識語を持つ切や冷泉為頼(1572~1627)の箱書ある資料も見え、江戸初期にはすでに断簡となっていた。切名称は日野家伝来たることによるか。 千載集成立を序文にしたがって文治3年(1187)とすれば、俊成七〇代以降の老筆となるが、鋭い転折やよどみない墨痕は、源平動乱の世を生きぬいた巨匠にふさわしい迫力に満ちている。日野切は、その書写形態から千載集の草稿ではなく、一種の撰者手控本と判断され、掲出の切にはないが作者名に細字注を付す例など、撰者自筆資料であるだけに注目すべき点が多い。 二重箱入。内箱蓋表に「日野切 おとろかぬ」、蓋裏に「藤原俊成卿 義〔花押〕」と墨書するのは吉沢義則(1876~1954)の手。古筆本家の極札「五条三位俊成卿おとろかぬ〔琴山〕」を脇に貼る。

◇ 9  拾遺和歌集断簡  筑後切(伏見天皇筆) 鎌倉時代後期写 軸装1幅
 縦27.9、横9.1糎の藍内曇斐紙。ツレが巻子本として存し、原態は明か。しかし多くの切に折り目が見られ、一時期折本となっていたらしい。また仏典が裏文字で写っている資料もあって、伝来過程に多くの問題を残す。 歌人として、また能書家として聞えた伏見天皇(1265~1317)の筆跡、広沢切と共に古くより喧伝される。筑後切は古今・後撰・拾遺の三代集を気品高い内曇料紙60巻に書写したもので、一巻分完全に残る後撰集巻二〇末に「永仁二年(1294)十一月五日書訖」とあり、天皇30歳の筆と判明する。古今集の場合は巻一八の零本が、後撰集には前述の如く巻二〇の完本が伝存、しかし拾遺集では巻一六の9首分が1軸としてまとまるのみ(徳川美術館)で、あとはすべて断簡。ゆったりと温雅な書風で歌1首3行書写を定式とし、稀に後人が下絵を描き入れたものも存する。 掲出の切は巻二〇1311、左端に折り目の跡が残る。拾遺集には巻末本奥書部分が伝えられており(たかまつ帖)、貞応元年(1222)9月7日藤原定家(1162~1241)の校訂書写した系統であることになる。貞応元年九月七日本は、従来知られていなかった系統で、伏見天皇による若干の取捨改変も想定される(杉谷寿郎「拾遺集定家本貞応元年九月七日書写本考」『語文』78)。古筆了?(1645~1701)の極札を付し、その裏面に「切歌一首丁丑七」とあるのは元禄10年(1697)丁丑七月の謂。

◆10  風雅和歌集断簡(尊円親王筆 奏覧本) 南北朝時代写 台紙張1葉
 縦27.3、横12.1糎の藍内曇斐紙に和歌1首2行書き。巻八冬726(下句)~727(上句)をゆったりとした格調高い書風で写す。本学には掲出の断簡に直接続く横幅11.9糎のツレを所蔵する。伝称筆者は伏見院だが、青蓮院尊円入道親王(1298~1356)の筆跡と確認され、17番目の勅撰集風雅和歌集の奏覧本を分割したものである。元来は巻子本、ツレは徳川美術館蔵手鑑『水茎』に1葉、林家旧蔵手鑑に1葉が報告される。断簡とは言え、奏覧本の原本としてきわめて貴重。

◇11  新勅撰和歌集(伝伏見天皇筆)  鎌倉時代末期写  列帖装1冊
 全二〇巻を上下に分写する勅撰集の通例にしたがった上冊10巻分。浅縹地に瑞雲を織り出した金襴表紙は、銀切箔を密に蒔いた見返しと共に後補。縦23.6、横15.3糎。外題なし。内題は「新勅撰和歌集」。本文料紙、斐紙。毎半葉9行歌1首2行書、書入なし。墨付139丁。巻一春上46番歌二行分削去の跡あり、その理由不明。 藤原定家撰。寛喜2年(1230)に撰進の企てがあり、天災に加え承久の乱や天福2年(1234)仮奏覧の直後後堀河院崩御、定家の草稿焼却などがあり、成立過程はかなり複雑である。文暦2年(1235)完成。新古今風の妖艶な歌は減少し、かわって平淡優美の詠が多い。幕府関係者に配慮してかなりの数を入集させ、宇治川集の異名を持つ。 この集は成立過程を反映して草稿本第一類から精撰本第四類に分たれ、それらのうち第四類に属し、特に定家自筆本の模本と相近い。掲出本を収める箱の蓋裏に「新勅撰上 後伏見院御筆」と墨書するが、識語・極札・折紙の類なく何によってかく記したか不明。書風はたしかに鎌倉末期の伏見院流に棹さすものである。

◆12  新続古今和歌集(西本願寺旧蔵) 江戸時代前期写 列帖装2冊
 縦24.9、横17.8糎の金銀装飾梨地紙表紙。左肩に藍曇紙題箋(縦15.6、横3.3糎)を押し、「新続古今和歌集上(下)」と墨書、本文と似るが別筆らしく、おそらくは飛鳥井雅章(1611~1679)の手。本文共紙見返し。布目の強い上質斐紙を用い、毎半葉9(序)・10行(本文)に書写、和歌1首1行書、全巻一筆。下巻末に文明11年(1479)沙弥栄雅の本奥書。栄雅は新続古今和歌集撰者飛鳥井雅世(1390~1452)の長男雅親(1417~1490)の法名であり、奥書中に「亡父撰進中書之本」の文言が見え、掲出本は後述する如く飛鳥井家において調えられたと判断されるので、筋のよい伝本と言える。巻首に「写字台之蔵書」、尾に「紫藤華下書窓」の朱文印あり。前者は浄土真宗本願寺派本山西本願寺門主の旧蔵たることを示し、後者は飛鳥井家の所用か。 飛鳥井雅章は二十一代集の全てを自ら写しており(書陵部508・208)、掲出本は副本として雅章側近の書写したものであろう。他にツレとして新勅撰和歌集・新後撰和歌集・玉葉和歌集を蔵する。 

○13  万葉代匠記序(契沖自筆稿本)  元禄元年(1668)頃写 巻子1軸
 白茶色桐葉織文薄絹表紙。見返し、金銀砂子撒き。外題なく、内題「上水戸源相公萬葉代匠記序」。紙高29.9糎、横97.3糎の長大な楮紙。 契沖が万葉代匠記(以下「代匠記」と略称)を完成させるまでの経緯は、①徳川光圀の下河辺長流への万葉注釈書作成依頼、②長流の着手と発病、③長流の推輓により契沖へ改めて水戸側より委嘱、④契沖の起稿、⑤長流死去、⑥代匠記初稿本の成立と献上、⑦光圀の不満と改稿の要請、⑧改稿した精撰本の成立と献上、の順に考えられてきたが、再吟味の結果、④は①をも遡る(池田利夫「万葉代匠記の起筆年次」『文学』昭和54年7月)。つまり長流と契沖とはそれぞれに万葉注釈に励んでいて、契沖(1640~1701)は、長流(1624~1688)発病のあと、先の③⑤~⑧の順に推移したのであり、この代匠記序は?に際しての光圀(1628~1700)への献上書。当然に水戸側に渡った筈であるが、現在、円珠庵に一通とこの一通が、それぞれ自筆本として遺る。水戸側の学者安藤為章(1659~1716)の『年山紀聞』に「元禄はじめのころの作」とある。序の内容は、同文の円珠庵本が岩波版『契沖全集』第一巻に全文翻刻されているが、これは紙高23.8糎なので、掲出本よりやや小さい。注目すべきは、円珠庵本が既に契沖仮名遣で書かれているのに、本書は「すくなきをおきて→をきて」「しほたれぬれとも→しをたれ」などと定家仮名遣に書かれていることである。初稿本代匠記の原本は戦災でほとんど焼失したが、朝日版全集によって、仮名遣が移行していく過程を見ることができるので、円珠庵本と比較して本書の方が前段階を示している。池田利夫氏旧蔵の寄贈本。なお、精撰本序は漢文で書かれているが、自筆序文は伝わらない。

○14  二十巻本歌合断簡 二条切(伝藤原俊忠筆) 平安時代後期写 軸装1幅
 楮紙。縦25.9、横15.6糎。高さ22.4、幅2.6糎ほどの淡墨界を施し、紙面中央下部に「財」朱印の痕跡がわずかに残る。 源雅実(1059~1127)を中心とし、大治元年(1126)頃まで編集が続けられたと推される類聚歌合の原本で、左側6行分は寛平5年(893)以前成立寛平御時后宮歌合161・162、右側2行は天元4年(981)4月26日小野宮右衛門督家歌合11の判詞と12の上句。二つの歌合断簡を寄びツギしたものである。萩谷朴『平安朝歌合大成』にいずれも田中家蔵として紹介。 二十巻本歌合は数筆の寄り合い書き草稿本と思われ、伝藤原忠家(1033~1091)筆柏木切、掲出の切のように俊忠(1073~1123)筆と伝称される二条切、その他伊丹切の名もある。忠家・俊忠とも、俊成・定家につながる歌の家の祖として筆者にとりあげられたのであろう。

◇15  類字名所和歌集    江戸時代前期写 列帖装8冊

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◇15  類字名所和歌集  江戸時代前期写 列帖装8冊
 紺地に金泥にて秋草・土坡を描き、霞引を施した縦24.2、横17.2糎の豪華な原表紙、押発装あり。左肩に縹色地金泥下絵題簽(縦16.2、横2.3糎)を貼り、「類字名寄一(~八)」と墨書。紗綾形文の金紙見返しがあって各冊巻頭に目録を分載する。首題「類字名所和歌巻第一(~八)」、毎半葉10行和歌1首2行書きを原則とするが、稀に1首1行に写す。歌上方に集付、下方に作者名を記す尋常の名所和歌集である。料紙は精良な斐紙、奥書を欠くが書風・装訂等から見て江戸前期の嫁入本であろう。 元和3年(1617)刊の古活字版を最古伝本とする類字名所和歌集は、通常本文7巻全8821首の大規模編著であるが、掲出本はこれを抄出縮小、具体的に第一巻を比べると、元和本1034首から掲出本は332首のみを残す。そして第六巻相当分を嵐山~紀伊海、弓槻嵩~白河に分冊し、都合8巻に仕立てたもの。おそらくは杉田勘兵衛刊の整版本あたりが底本であろう。

◆16  六百番歌合 古活字版  寛永末年刊 袋綴8冊
 縦27.3、横18.3糎の藍地紙表紙。痛みあって補修、模様はわかりづらいが雷文に蓮華唐草の艶刷りか。左肩に楮素紙題簽(縦16.8、横3.7糎)を押し、「六百番歌合一(~八)」と刷る。古活字版の原題簽が全冊に残っているのは、それほど例が多くない。内題「左大将家六百番歌合巻一(~八)」(巻首)、刊記なし。毎半葉12行26字程度、印刷面縦22.0、横15.2糎。連続活字を使用、やや小ぶりの文字主体に構成した版面は、寛永(1624~1644)後半の特徴を示す。古活字版六百番歌合には、11行本・「寛永十七年九月吉辰」の刊記を持つ12行本・掲出本すなわち無刊記12行本の3種があり、川瀬一馬『増補古活字版之研究』は、掲出本の如き12行本を寛永17年(1640)後間もなくの出版と見ている。 六百番歌合は建久3年(1192)冬頃から計画され、藤原俊成(◆8参照)の判詞も加えて同5年には完成していたらしく、主催者後京極良経(1169~1203)の名をとって、当時は左大将家六百番歌合と呼んだ。100題600番1200首の大規模歌合で、良経以下藤原定家(1162~1241)・慈円(1155~1225)・寂蓮(?~1202)・顕昭(?1182~1219?)ら有力歌人が参加し、左方寂蓮と右方顕昭の論争・俊成の判詞など歌学史上の意義も大きい。「源氏見ざる歌よみは遺恨の事也」と俊成が言挙げしたのは、この折のことである。諸本間に大きな揺れはない。 掲出本は補修こそあるものの原表紙・原題簽をとどめ、印刷鮮明な古活字版として貴重。

◇17  俊成九十賀屏風和歌  元禄頃写 折本1冊
 縦25.0、横21.7糎の茶地龍文金襴表紙、押発装あり。中央に金泥下絵の絹地題箋を貼り、「俊成卿九十賀屏風和哥」と墨書、別添折紙によれば青蓮院宮尊証親王(1651~1694)の筆。金箔散らしに桜・牡丹・紅葉等を描いた美麗な見返しを備え、本紙全6折。 12枚の色紙は、藍吹墨模様に金泥下絵を加え、金・赤・紺等で細く縁どる。檀紙の折紙が付き、妙法院宮堯恕親王・有栖川宮幸仁親王・右大臣近衛家煕ら宮廷最上級の人名を列挙する。他の資料と比較して、その所伝はほぼ信ずべきものであろう。筆者中では烏丸光雄が元禄3年(1690)に没しており、他の人々はその後の薨去であるから、元禄初年までに揮毫されていたことになる。ただし折紙は家煕に「右大臣」を注記するので、任右大臣の元禄6年以降の鑑定。 皇族・公卿の分担書写した色紙・短冊の類は必ずしも珍しくないが、三十六歌仙絵短冊帖(○21)と比べてはるかに高い身分の人々を揃え、特殊な注文に応じたものであろうと推される。巻末の「雪」は江戸時代屈指の能書近衛家煕(1667~1736)の若々しい筆跡  仮に元禄元年書写とすれば22歳 と推される。  なお本文は、源家長日記から建仁3年(1203)11月23日に催された藤原俊成九十賀の屏風歌の部分を抄出したもの、ほとんど第三類流布本に一致するが、わずかに第一類古形本に近づくところもある。

◆18  白河殿七百首(曼殊院旧蔵) 江戸時代初期写 袋本1冊
 縦28.5、横19.0糎の表紙左肩に「禅林寺殿七百首」と打付外題。内題なく、扉に「出題」として各題者名を記す。簾目の強い香色斐紙を用い、毎半葉10行、和歌1首1行に書写。字高約23.0糎。巻頭に「曼殊院之印」の朱文印を押す。白河殿七百首(禅林寺殿七百首)は、続古今和歌集撰定に向けて動く歌壇の中で、文永2年(1265)7月7日後嵯峨院が白河殿にて主催した当座探題歌会。掲出本は3類に整理される伝本のうち、第?類精撰本に属し(井上宗雄「白河殿七百首の基礎的考察ー伝本と成立を中心にー」『和歌文学研究』47)、その中でも特に「最も純粋の方向にある」として新編国歌大観底本に用いられた内閣文庫本(201・275)に細部までほぼ一致する。曼殊院の旧蔵と併せて、諸本中注目される一本である。

◇19  袖中抄(富岡鉄斎旧蔵)  慶安4年(1651)刊 袋綴20冊
 縦27.3、横19.0糎の藍色無地紙表紙、押発装あり。左肩に子持枠(縦17.9、横3.5糎)題簽を張り「袖中抄一(~廿終)」と刷る。原表紙・原題簽の風格ある典籍。本文四周単辺(縦20.7、横15.3糎)、毎半葉10行20字程度、注1字下げ。版心文字なし。第一冊巻首に「鉄老斎」の大型朱文印と「富岡百錬」の朱白文印、いずれも富岡鉄斎(1836~1924)の所用。他の印については未勘。 寿永2年(1183)以前一旦まとめられた初撰本(顕秘抄)3巻を増補、文治年間(1185~1190)にまとめなおした再撰本が袖中抄であり、多数の先行歌学書を引用した実証的な歌語注解辞典。顕昭の著述中後代への影響が大きいものの一つ。 袖中抄の版本は、20巻を合冊して5・6・10冊等の形にまとめた例も多いが、掲出本は1巻1冊仕立ての20冊本、最終巻末尾に天文22年(1553)正月の山科言継(1507~1579)の奥書を模刻し、次に「右此袖中抄者、古来和歌/道之奥秘」以下の刊語、さらに子持枠(縦6.8、横2.2糎)刊記「慶安四暦初秋/丸屋庄三郎」。ただし版面から判断して慶安4年(1651)の刊刻ではあり得ても、摺刷はやや下る。江戸時代中期にも袖中抄は摺られて(正徳5年の書籍目録大全あたりが最後か)おり、掲出本は、同じく慶安4年の年紀を持つ林甚右衛門の入木改刻したものであろう。なお書誌学上おもしろいのは丁付の様式で、ノドの部分丁のオモテ・ウラ面の両様あるが、1丁の上下2個所天地逆の丁付が見られることである。しかも丁付の数字が実際の丁と対応せず、いかなる理由でこのような丁付を刻したのか不明。しかし珍しい例と言えよう。

◆20  貫之集断簡 村雲切(伝寂然筆) 平安時代末期写 台紙張1葉
 縦16.7、横11.0糎の金銀箔散らし斐紙を切箔料紙にて縁取り。冷泉家時雨亭文庫に15葉を継いだ1巻(重要文化財)が伝存する。歌仙歌集で示せば110~112番歌を写し、和歌1首2行書き詞書2字下げ、右端若干が切られており、原態は縦17.0、横14.0糎程度の粘葉装冊子本。そのほぼ半丁分に相当し、「寂然法師(細字「はなのいろは/こたかた(ママ)りに/書入/定家卿」)」と記した古筆本家了栄(1601~1678)の極札を付す。その裏に「はなのいろは砂子 丁巳九」とあり、延宝5年(1677)の鑑定と思われる。 奇僻のある、しかし自在な筆跡は寂然(俗名藤原頼業、?~1182)の手と伝称され、2行目「はきの」を「はなの」等と訂正した太字は、極め通り藤原定家(1162~1241)の筆。書写年代の古さと書入れの筋のよさから本文資料として評価が高く、定家の校訂の結果が歌仙歌集本諸本の祖となったと考えられている(杉谷寿郎『平安私家集研究』第一篇)。現在70葉ほどが知られ、本学は掲出の切の他に5葉を蔵し、冷泉家時雨亭文庫本に次ぐまとまりをなす。以下に他の断簡の内容を示しておく。61~62(詞書)、582、614~617、687・688(詞書)、784・785。 

○21  三十六歌仙絵短冊      貞享頃写 折帖1冊 <個人蔵>

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○21  三十六歌仙絵短冊  貞享頃写 折帖1冊 <個人蔵>
 縦40.7、横17.3糎の緞子表紙。中央に金紙縁取り絹地題簽を押すも、外題記入せず。金揉箔散らしの厚手料紙10折20面、首尾計2面を除く各面に2枚あて絹地短冊(縦37.3、横5.8糎)36枚を張る。それぞれの短冊右肩に花山院内大臣定誠以下大炊御門前内大臣経光までの筆者名を記した小紙片あり。他の筆跡資料と比較して、その人名比定は正確であると思われる。 筆者のうち最も早く亡くなったのは正親町三条実久(1656~1695)であり、ゆえに揮毫の下限を元禄8年に置きうるし、さらに小紙片の官位を信ずれば、貞享元年(1684、園基福の辞大納言)以降、同4年(愛宕通福の任中納言)以前の調製。 宮廷最上級とは言いがたいものの、江戸前期の公卿達の筆跡を一覧するのに便利な短冊帖であり、何よりその精緻華麗な歌仙絵が印象深い。一人一人の面貌を描きわけ、丁寧に衣裳を塗り込めるその技と丹念さは、絵師の腕のみならず注文者の熱の入れ方までをも伝えているが如くである。特に女性像の出来がすばらしい。

○22  和漢朗詠集(伝後京極良経筆、横浜市指定文化財)  鎌倉時代写 巻子2軸
 金茶色に金銀にて樹木を織り出したモール表紙。紙高30.2糎。見返し、金銀切箔・霞引き斐紙。外題なし。内題、上巻は首部に破損欠脱あって不明。下巻に「和漢朗詠集下 雑」。本文料紙、斐楮混漉。紙幅48糎程度のものを38紙(上巻)、51糎程度のものを36紙(下巻)継ぎ、各々礼紙一葉を介して牙軸に付く。総裏打を施し、紙背継ぎ目に楕円の墨印が合縫として押されるも、印文不能読。 天地に淡墨界(界高25.9糎)、縦罫はなく、漢詩1行14字ほど、和歌1首2行書。上巻では和歌の2行目を1字もしくは2字下げとする所が多い。なお和歌2行は各々上下句に対応するのが原則ながら、子日32「千とせまてかきれるまつもけふ/よりはきみにひかれよろつよやへん」の如く、改行と句切れの一致しないところもある。これは鎌倉時代の早い頃までに多く見られる書写様式で、掲出本の製作時期推定に一つの手がかりを与えるであろう。奥書なし。 上巻のすべてと下巻冒頭に朱墨の書入あり。朱はかなり詳細で紀伝点、菅家の訓を伝えるか。墨は声点( ○ 、 ○○ )・返点・作者名および詩題の注記(子日33まで存)・片仮名傍訓少々、それらにはすくなくとも二手が認められる。本文を検するに、重出(立春3の次に霞78を置く)・歌序の異動(草441・442・440、無常796・798・797)・増加(竹436の前に「よにふれば」の歌1首、遊女724の次に「家交江河南北岸」の詩句)のほか、字句の異同若干。堀部正二『校異和漢朗詠集』紹介の世尊寺行尹本・嘉暦本に近いか。元来上巻の初めに総目録を置き、下巻は直接本文に入る形式であったと思われ、上下巻で字の大小・料紙の長短等はあるものの、全巻一筆の写。伝称筆者後京極良経(1169~1206)の手では無論ないが、後京極流の力強い名筆と言えよう。 古筆家初代了佐(1572~1663)の折紙あり。その文言に「己上/這 和漢朗詠集上下者/後京極良経公御真跡/無紛者也 応御所望/証之而已/承応二暦三月上旬古筆了佐〔琴山〕(花押)/打它十右衛門殿」と見え、宛所の「打它十右衛門」とは糸屋と号した江戸時代初期京の豪商打它公軌のこと。彼は松永貞徳門下で、木下長嘯子(1571~1653)や蒔絵師山本春正らとも交渉があった。 旧蔵者打它公軌と同時代の如く思われる贅沢な印籠蓋造蒔絵箱に収め、書の風格・訓点の資料性・旧蔵者を特定しうる折紙などと相俟って典籍の魅力を高めている。

 III 物語

○23  竹取物語断簡  室町時代初期写 台紙張1葉 <個人蔵>
 縦9.7、横9.7糎の斐紙。毎半葉9行17字程度の小型列帖装冊子本を分割したもの。二条為定(1290~1360)の筆と極められることもあるが、通常掲出の切のように後光厳院(1338~1374)を伝称筆者とする。 「物語のいできはじめのおや」として長い享受の歴史を持ながらも、竹取物語は古写本に恵まれず、天正20年(1592)中院通勝識語のある武藤本、無奥書だが永禄・天正頃の写しかとされる吉田本、それにこの伝後光厳院筆小六半切の他には、ほとんど中世に遡る伝本を見ない。何より竹取物語最古の伝本資料である点、貴重視されるものだが、本文の特異さもまた注目に値する。竹取物語はごく少数の古本系伝本と近世以降圧倒的に多数を占める通行本系とに分けられてきた。しかしながら現在判明する古筆切9葉を通覧してみれば、古本系と近い部分を持ちつつも全体としては通行本も含めた現存諸本のすべてと対立する傾向にある。書写年代の古さ、伝本研究上の重要性、存在数の少なさ等いずれの点からも、愛らしいこの切が持つ意味は大きい。

○24  伊勢物語(近衛信尹筆) 江戸時代初期写 列帖装1冊
 縦30.3、横20.3糎の大ぶりな藍色紙表紙に、菱渦繋ぎ地牡丹散らしの艶刷り。白緑色地に金泥と墨で草花と松を描いた題簽を中央に押し、「伊勢物語」。本文料紙、厚手斐紙。 折紙や極札の類はないが、その筆跡、後述の書写態度などより見て、三藐院近衛信尹(1565~1614)の真筆、念のため陽明文庫の名和修氏に観て頂いた。信尹は近衛家の嫡男として早く左大臣になったが、奇行が多く、豊臣秀吉に関白を奪われた上に勅勘をも蒙って、遂に3年間、薩摩の坊津に配流された。才気煥発な気質は書風にもあらわれ、帰京後は関白に返り咲いて、書への声望も高く、近衛流の祖ともなった。光悦、松花堂昭乗とともに寛永の三筆とたたえられるが、寛永年間は信尹没後10年に当る。毎半葉10行書写、歌は2字下げ2行書きであるが、最後の辞世の歌は散らし書き風に写す。勘物は一切ないが、根源奥書と武田本奥書とを雄渾な文字で写し、末に「右両本奥追書加之畢」と記す。いわゆる根源本と武田本とが併存している認識があってのことで、あるいは親本は無奥書本であったか。本文は武田本に近いが、根源本の中では千葉本・七海本などと親近性を持っている。 伊勢物語は、各段が「むかし男ありけり」で始まるのを原則とするが、繰り返される「むかしおとこ」の単調さを避けるため、最初は「むかし男」と写し、次第に「無閑止於止古」「武迦止雄登孤」「舞我視オトコ」「六香子於東虚」「夢可志おとこ」など、戯れ書きの真仮名で闊達に書く。

○25  伊勢物語(定家筆本の模写本) 室町時代写 列帖装1冊
 縦17.5、横17.9糎の藍色唐草文緞子表紙。見返し、金砂子撒き、金泥桜小紋散らし。外題・内題・奥書・巻末勘物なし。但し、本文行間勘物・集付あり。本文料紙、斐紙。毎半葉8行?12行書写。和歌は改行約1字下げ2行書き。付属文書、折紙1枚。「伊勢物語六半本全一冊、右、小堀遠州政一筆 証札別有之。代金子五両。神田道伴(印) 癸丑臘月上旬」とあり、別に、道伴の極札。享保18年(1733)12月の鑑定であろう。 小堀遠州は秀吉・家康はじめ、三代将軍家光にまで、作事奉行や茶道師範として仕えたが、定家様の文字を能くしたことでも知られ、内閣文庫には「政一」の自署と、小判形印鑑を捺した遠州真筆の伊勢物語が所蔵され、天福本奥書や勘物を備えているが、天福本原本を臨模したという三条西実隆筆本・冷泉為和筆本に共通する字詰とは全く異なり、毎半葉10行に見事な定家様で端正に写されている。それに対し、掲出の伝遠州筆本は、右の内閣文庫蔵本と全く異質な筆跡であり、小堀遠州の手ではなく、定家筆原本を精確に臨模した本であり、天福本とは別種の、しかも定家独特の筆致をあるがままに伝える本と推定できる。 千数百部現存する伊勢物語のほとんどが定家本であるのに、定家真筆は古筆切としても一枚も遺存していない状況で、この本の出現は、伊勢物語本文研究に大きな一石を投ずるものであろう。根源本の中でも最も純度が高いと言われる九州大学蔵伝為家筆本と近いが、掲出本と九大本とを直接比較すると、また54箇所の異同があり、しかも九大本一二一段にある「まかりいつるを見て殿上にさふらひけるおりにて」の傍点部を掲出本が欠くなど両者は全くの別系統である。原本に奥書があったのに写さなかったとするのは、臨模本なので考えがたく、無奥書本ながら、行間勘物が、他伝本の定家勘物とされる傍注の中で、かなり原初的であるのも注目すべき点の一つであろう。 

◇26  宇津保物語(奈良絵本巻子改装)     江戸時代前期写 巻子1軸

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◇26  宇津保物語(奈良絵本巻子改装) 江戸時代前期写 巻子1軸
 千歳茶地丸紋金襴表紙。見返し、金紙。本文料紙、斐紙。本来、横長の冊子本を台紙に貼って巻子本に改装。台紙の紙高20.9、本文紙高15.1糎。 宇津保物語は二〇巻より成っているが、第一巻の俊蔭の巻のみを単独に写し、読む習慣ができた。主人公が波斯国に漂着し、西方へ赴いて数奇な経験のうちに霊琴を得て帰国したり、遺児である娘が兼雅と結ばれて仲忠を生んだものの、大木のうつぼに住むような困窮を味わった末、十余年後、琴の霊験で兼雅と再会して幸福になる運びに変化と完結感があるからであろう。俊蔭のみの古活字版2冊(◆27)の刊行を見、本学蔵の文化11年(1814)書写俊蔭一冊本でも、外題に「うつほ物かたり 完」と書かれている。掲出本は冒頭から始まりはするが、俊蔭があめわかみこ天雅御子から授けられた霊琴を弾くと、7人の天女が舞い降りて遊び、「なんぢはなんぞの人ぞととひ給ふときに、七人の人みならいはいして申さく」で終り後続部分を欠くので、巻一のみの残欠本を巻子仕立てにしたのであろう。絵3枚、途中にも絵を欠いたと思われる箇所がある。7人いる筈の天女が、3人にとどまっているのはご愛嬌。

◆27  宇津保物語 古活字版  江戸時代初期刊  袋綴2冊
 雷文地に蓮華唐草を空刷りした縹色表紙。縦27.0、横17.7糎。古表紙ではあるが原装ではなかろう。左肩に打ちつけ書きの外題「うつほ物語 上(下)」、内題「うつほものかたり 上(下)」。第一丁オモテより毎半葉11行19字程度を縦20.8、横15.3糎に印刷。漢字平仮名交り、平仮名は連続活字使用。上46丁、下38丁、川瀬一馬『増補古活字版之研究』の元和寛永中刊11行本第一種ロに相当し、竹取物語第三種本と同種の活字を用いる。活字に少々摩滅が見られ、また頻出する「琴」字は新彫か。 うつほ物語は源氏物語に先行する二〇巻の長篇ながら、俊蔭の巻のみ書写・印行されることが多かった。印刷されたものの内では、この第一種が最も古く、万治2年(1659)林和泉掾刊絵入本三巻へと続き、全巻の上梓は延宝5年(1677)まで下る。いずれも数少ない典籍である。

○28  源氏物語(伝冷泉為相筆) 鎌倉時代末期写 列帖装1冊
 表紙は墨流し地に金銀泥の霞引、切箔、野毛を撒いて外題はなく、見返しは銀の密な切箔。別紙の扉紙に「二はゝきゝ」とあるのは後補であろう。縦17.5、横17.1糎。本文料紙、斐紙。 源氏物語のような浩瀚は作品では、古い本ほど揃い本は乏しく、揃いでも一部が取合わせであったり、補写の巻を含む場合が多い。そこで揃い本でも1冊ごとに検証する必要があり、これを逆の視点より考えるなら、古鈔本は1冊でも、1括でも、更には1葉の断簡でも本文資料としては貴重である。この1冊は本館所蔵の『源氏物語』写本では最古の鎌倉末期書写本で、伝来の間に4括より成る須磨の巻の第1括が欠け、それをほぼ同時代書写別筆の帚木第1括8丁で補い1冊となしたもの。帚木の前付白紙一丁裏に冷泉為相の筆と鑑定した古筆別家(了任か)の極札を貼る。帚木本文は冒頭より「いとかはらかなりいゑの」(源氏物語大成39頁)、須磨は「わかれはかうのみや」(同400頁)より末尾まで。いずれも青表紙本ながら、それぞれに注意すべき独特な異文がある。須磨にのみ朱の合点。

◇29  源氏物語抜書(中院通茂筆) 江戸時代中期写 巻子本1軸
 藍地に瑞雲・龍等を織り出した金襴表紙、外題なし。金布目紙見返しに続き、縦30.2、横48.5糎の斐紙8枚を継いで本紙とし、さらに1紙を足して中院通躬(1668~1739)正徳4年(1714)9月の加証奥書、その脇に古筆了信の極書を添える。本文料紙は金泥にて蝶・鳥を描き、追加の分もまた同種文様を用いて調和をとる。古い象牙軸。源氏物語若菜下より六条院女楽の場面を抄出、ゆったりと散らし書きしたもの。 筆者は通躬の奥書に「此一巻、先人故内府通?公筆跡也(以下略)」とあるように、その父通茂(1631~1710)の手。通茂は歌人・歌学者として名高く、著述すこぶる多い。水戸光圀と親交のあったことでも知られる。 抄出された本文(源氏物語大成1149~1151頁)は、「えことませてなむ」(諸本)⇔「えことませて」(三条西家本・掲出本)のように、青表紙本系三条西家本に近い。

◆30  源氏物語 桐壺(三条西実隆奥書) 室町時代後期写 列帖装1冊
 縦17.3、横17.5糎の升形本。本文共紙表紙中央に楮素紙片(縦5.0、横2.2糎)を押し、「きりつほ」と墨書、遊紙1丁あって次の丁オモテより毎半葉10行17字前後に写す。本文墨付35丁、奥書1丁(ウラ面のみ)、全4括。付属の包紙に覚書、それに従えば外題は一条兼良(1402~1481)、本文筆者定法寺大僧正公助(??1510)、奥書三条西実隆(1454~1537)となる。他の筆跡資料と比較して、所伝、特に実隆の奥書は信頼出来よう。 青表紙本系統の本文を持ち、源氏物語大成底本(伝二条為明筆池田本)とほぼ同じだが、まま肖柏本・三条西家本に近づく個所もある。行間に細長の小紙片を相当数貼り、「いれいかち也」(「あつしく」の注)、「にてと云切たるよき也」(「よしあるにて」の注)などと記す。具体的な注の出所は不明だが、室町時代末のものか。最終丁ウラに実隆の奥書「此物語全部松浦肥前守源守/感得之云々余先年所見之本也因加筆而已/享禄第二季陽上澣/桑門堯空」があり、かつて一覧した源氏物語に享禄2年(1529)3月上旬奥書を加えたものと判明する。実隆公記同月五日条の「松浦肥前守源守、源氏外題・同奥書所望、今日書之」と対応、ただし掲出本には実隆筆の外題が見えず、伝来の詳細については、なお考うべきである。

◇31  狭衣物語       古活字版    元和9年(1623)刊 袋綴8冊

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◇31  狭衣物語 古活字版  元和9年(1623)刊 袋綴8冊
 「源氏・狭衣」と並称、修辞の妙と構成の美とに秀でて広く愛読さ、後世の文学への影響は大きく、『小夜衣』『石清水物語』などの擬古物語をはじめ、和歌・謡曲から近世の草子類に及ぶ。成立後間もなく改作されたらしく、おびただしい種類の異本が存在し、その系統分類も決定的なものがない。掲出本は4巻を上下に分け8冊として印行、『狭衣物語』の最初の出版かつ近世の流布本たる承応3年(1654)刊本の祖となったもので、享受史上・伝本研究上の重要な資料である。 縦28.1、横20.0糎の紺色紙表紙。元題簽を失ってはいるものの、若干の修補を除いて原装のまま。無辺無界。字面の高さ22.4糎。毎半葉12行、21字詰。平仮名交り、連続活字使用。漢字は二手以上を混用する。外題、第五冊まで表紙左肩に後補の雲母引楮紙題簽を押し「さころももの語」の如く墨書、その下方に「一上(?四下)」と朱書。内題「狭衣巻第一之上(?四之下)」。最終冊末に刊記「元和九年五月中旬 心也開板」。心也については他に出版なく伝記未詳。全巻にわたって句点・濁点・片仮名による訂正などの朱書入あり。巻頭に「九岡成□」の印記。

◆32  浜松中納言物語(祖型本) 江戸時代初期写 袋綴1冊
 縦24.9、横18.2糎、毎半葉11行22字程度、料紙斐紙。虫損甚だしいが藍色無地紙表紙は原装であろう。総裏打を施して補修済み。 従来知られている浜松中納言物語は甲乙二類に分けられ、甲が比較的善本と言えるが、しかし両類とも10箇所以上の誤脱を有する。掲出本はこの誤脱を一切持たず、甲乙に分岐する以前の粗型をとどめるものと推定され(池田利夫「祖型本浜松中納言物語巻二(零本)の新出」古代文学論叢14)、わずかに1冊といえどもきわめて価値の高い典籍。ツレはまだ発見されていないが、同筆と目される『恋路ゆかしき大将』『我が身にたどる姫君』『とりかへばや』(以上国文学研究資料館)『歌合集』(実践女子大学・早稲田大学)などの報告があり(池田利夫「祖型本『浜松中納言物語』の筆者は誰」鶴見大学紀要38、石澤一志「九条家旧蔵本『歌合集』について」国文鶴見36)、九条家ゆかりの人の書写であろう。
〈番外〉 源氏物語屏風(大学祭期間中のみ特別展示)
 源氏絵の屏風はかなり遺存しているが、多くは一隻に数巻の場面が金箔の雲形で仕切られた空間に描かれている。これは向って右に桐壺、左に胡蝶の巻を配する。本来は一双あったのであろう。桐壺の画面は、7歳ごろの源氏が鴻臚館の上段に座り、高麗人の相人に相を占わせている図。胡蝶は、太政大臣に至った源氏が豪壮な六条院を建て、池に龍頭鷁首の船を浮かべ、秋の町の女房たちが、紫上のいる春の町へ、船楽の奏される中を舟でやってくる場面と、翌日、中宮の方で季の御読経が催され、紫上が迦陵頻と胡蝶の舞装束をさせた童女たちを差し向け、仏に花を献じた上、舞わせたという図が一つになっている。鴻臚館の築地を松葉で糊塗し、しかも上方に伸びる枝ぶりが作為的で、後補の筆が入ったと見てとれる。一双のうち一隻づつの片面にそれぞれ損傷が生じ、両者を繋ぎ合わせることで一隻をとどめるため、接合部分に手を加えたのではないだろうか。源氏屏風としてはやや小ぶりながら、人物や建物の細部まで精密に描かれており、華やいだ気分あふれる作品。

  IV 軍記

○33  異本平家物語断簡 長門切(伝世尊寺行俊筆) 鎌倉時代末期写 台紙張1葉
 縦30.6、横14.8糎の斐紙に界高27糎余の淡墨界を施し1行18、9字書写、那須与一扇の的の有名な個所である。大ぶりの紙面に世尊寺流の能筆が映え、いずれの断簡も一貫した調子でゆるみなく書写し、まま朱合点あり。 『新撰古筆名葉集』行俊の項に「平家切 巻物 上下横界アリ」と見え、「長門切」の称は国宝手鑑『見ぬ世の友』の付箋による。長門本平家物語とは関係ない。すべての切が世尊寺行俊(??1407)を伝称筆者とし、古筆切にしばしばおこる伝称筆者のゆれのないのは、相当量の巻子本が組織的に分割されたことを意味するのかもしれない。書写年代については研究者によって認定に差があるけれども、行俊よりは古く、その祖父行尹(1286~1350)あたりが時代的にはふさわしい。行俊に擬せられた理由不明、巻子本の段階で行俊の奥書識語の類でもあったものか。 おびただしい平家物語の異本中増補(読み本)系諸本特に『源平盛衰記』との親縁性がよく指摘され、その祖本的な要素が強いとも言われる(藤井隆「平家物語異本平家切管見」松村博司先生喜寿記念国語国文学論集)。諸本のいずれとも重ならない独自な異文を持つことや、現存最古の本文資料であること等その意義は大きい。現在40葉ほどが知られ、掲出の断簡の他本学には12葉を蔵し、最大のまとまりである。

○34  平家物語  零本  室町時代末期写 袋綴2冊
 縦22.4、横21.6糎の藍色無地紙表紙。痛み多く補修を加えるも原表紙か。中央に蝋箋外題を押し「平家物語 巻一(二)」と墨書、巻一本文と同筆のようである。内題同じ。毎半葉8行17字程度漢字平仮名交り、巻一と二とは別手で、巻一の方が老筆らしい。目録なく章段ごとも改行せずに書き通す形式。通常の分巻と同じく、巻一内裏炎上、巻二蘇武までを写す。 全巻にわたる朱の書入れあり。これも少くとも二段階に及び、早い時期に章段の始まりを示す合点と章段名、遅れて片仮名傍訓・合符等を記す。章段の区切れは必ずしも諸本と一致しない。 横幅を大きくとった堂々たる写本で、覚一本系本文を持つ。室町時代の伝本として貴重だが、巻三以下を欠くのが惜しまれる。

○35  曽我物語  江戸時代初期写 袋綴12冊
 縦30.8、横21.8糎の大型本。各冊ごとに図柄を変えた金銀泥下絵の原表紙、その中央に朱に金箔散らし原題簽を押し、「曽我物語一(~十二)」と墨書。左端に押発装が認められ、全体として丹念な装幀である。赤と紺との2種類の綴じ糸を用いるが、赤が原糸。各冊とも巻首題・尾題を同じくし、「曽我物語巻一(~十二)」と記す。斐楮混漉き料紙に全巻一筆で毎半葉10行12?25字書写、本文と同筆の振り仮名・濁点を付す。奥書・識語等はなし。仮名本の完本であり、傍系説話の付加状況などから見ると、武田本(國學院大学)乙本と共通する点が多い。最古態とされる太山寺本と通行の整版本との間に位置する貴重な伝本であろう。

○36  義経記 零本 古活字版丹緑本  元和寛永中刊 袋綴1冊 <個人蔵>
 巻二のみ存。縦28.0、横19.8糎の後補藍色無地紙表紙、左方に楮素紙題簽(縦19.2、横3.6糎)を押すも、外題記入なし。内題は首尾ともに「義経記巻第二」、毎半葉12行23字程度、印刷面縦23.3、横15.5糎。全45丁、遊び紙なし。かなりの損傷を蒙っており、総裏打ち補修済み。元和・寛永(1615~1644)中刊第二種本(川瀬一馬『増補古活字版之研究』)のイに相当し、四周単辺(縦19.5、横14.7糎)の挿絵8面を持つ。素朴な図柄に朱・緑等の彩色を施した所謂「丹緑本」であり、痛みはあるものの、十分に時代の趣きを味わえる。丹緑本と称される典籍の中には鮮やかすぎる顔料をくどく塗った例が相当多く、それは価格をつり上げるための悪質ないたずらである。最近、やはり義経記古活字版12冊揃い本を丹緑本として売り出した老舗あり、実見したところ至極怪しいものと判ぜられた。

○37  明徳記(寛永九年版) 寛永9年(1632)刊 袋綴3冊
 縦26.0、横19.0糎の渋引後表紙を付した漢字片仮名交じり整版本。左肩に子持ち枠を刷った題簽を押し、「明徳記(割書き「上(中・下)巻/称意館蔵本」)」と墨書。各冊とも巻首題「明徳記巻第上(中・下)」、その下に「いん斎蔵」の長方形朱文印あり。丁数はそれぞれ21・29・23丁、毎半葉12行。全巻に異本との対校結果を示した朱墨二種の書き入れ、各冊末尾に「壬戌四月十有八日校了」、「壬戌夏念四校過」、「壬戌初夏念七日校了」とあって、校合月日が判明する。下巻最終丁に「寛永九年壬申季冬刊行」の刊記、さらに「享和壬戌春新収」の墨書が見え、旧蔵者は享和2年(1802)に入手、程なく校合を行ったと知られる。明徳記は、書陵部本・神宮文庫本などの初稿本系統と、陽明文庫本を完本とする改稿本系統に大別され、掲出の整版本は前者に属する。3巻の揃いは比較的珍しい。

 V 漢籍

○38  文選 古活字版  寛永2年(1625)刊 袋綴31冊
 朱無地紙表紙。縦30.0、横22.8糎。押発装あり。外題、左肩に楮紙題簽を押すも破損落剥甚しく、不能読の冊多し。「文選 一之二(~五十九之六十)」と墨書したものであろう。本文60巻を2巻1冊の形式で合冊、目録1冊を加え31冊の印行、古い杉箱に収む。 四周単辺、匡郭内縦23.3、横17.2糎。目録の冊のみ有界。毎半葉10行22字、割注多し。版心、花口魚尾に「文選 巻一(~六十)」として丁付を印刷。朱の句点・合符、墨の返点・片仮名訓・傍注が全巻にわたって存する。 最終冊末に「右文選板歳久漫滅(以下略)」の紹興28年(1158)南宋明州刊本の刊記を転載し、その後一行あけて、「慶長丁未沽洗上旬(以下略)」。これは所謂直江版『文選』の刊記である。 朱表紙大型本の堂々たる書品、前掲の刊記のみを見るならば直江山城守兼続(1560~1619)が要法寺において印行せしめた直江版『文選』の如くである。しかし丁のオモテの直江版刊記のみを引用しそのウラ面「寛永二乙丑」以下の刊記部分を切りとり、巻四の本文の最終丁をここへ移して糊付けしたもの。なかなか冴えた腕であり、勿論寛永版を直江版に見せかけるための詐術。なおこれを収める箱の蓋表には見事な隷書で「直江兼継校定慶長槧本/六臣注文選卅一冊」と記し、偽妄の古く行われたことを示している。 「読杜草堂」「寺田盛業」「字士孤号望南」(以上寺田望南)、「小汀蔵書」「をばま」(以上小汀利得)の蔵書印あり。 

◇39  大慈寺八景詩歌断簡 畠山切(伝二条良基筆) 南北朝時代写 台紙張1葉 <個人蔵>
 縦32.5、横13.2糎の藍内曇斐紙。天地に金界(界高27.3糎)を施し、1行18字に写す。掲出の断簡は4行分存、建仁寺荊山如琳の七言律詩であり、雲巣集によって「橋辺暮雨」の題と判明する。 装飾料紙を用いた大型巻子本が原態。康暦3年(1380)今川了俊(1326~1414?)が発起した日向国志布志の大慈寺にちなむ八景詩歌を書写、和歌・漢詩の伝称筆者はそれぞれ了俊と二条良基(1320~1388)だが、実際の筆者は別である。義同周信を顧問とし、その弟子柏庭清祖が編集にあたったらしい。漢詩を主とし和歌を従としてまとめられ、春屋妙葩・絶海中津ら五山の名僧が参加、二条為遠・九条忠基なども歌を詠じた(堀川貴司「大慈寺八景詩歌について」国語と国文学67-6)。元来は詩・歌別々の巻子本に仕立てられたが、分割後両者呼びツギした切もある。 南北朝時代詩歌集清書原本の残る珍しい例であり、掲出断簡は未紹介の1葉。

◆40  風俗通 残簡  元大徳9年(1305)刊 粘葉装1冊
 仮表紙包背装、縦32.7、横23.3糎。仮表紙の題簽に「風俗通七巻<五枚 宋版 精印/無破損並蔵書印>」とあるが、宋版ではなく元版。風俗通は後漢の応劭が、事物の名称を明らかにし、一般人士の誤った考えを正そうと著わした書。元来は30巻とも32巻あったとも言われるが、宋代で既に10巻が残るに過ぎなかった。この残簡は巻七の第一裏、三、四、五、六と八の表までの5枚、宋末元初の製本通り、版心を中央に糊とじにした粘葉装の原装のまま保存されているのは珍重すべきである。大抵の伝本は、後世これを版心のところで逆の二つ折りにして、袋綴として改装されているからである。 本体料紙の寸法は縦32.1、横41.8糎。四周双辺、匡郭内寸法、縦22.3、横14.9糎。有罫、毎半葉9行17字。版心は線黒口、双魚尾、題「風俗通七 一(~八)」。版木に裂け目の認められることがあるものの、摺は良好で、仮表紙題簽の注が指摘するように「精印 無破損」の、ゆったりしたとした風韻ある残簡。宋版のように見えるが、「殷」「桓」といった宋代天子の諱を欠画(天子への礼で、その漢字の一画を省くこと)にしていないので、宋版とは認めがたい。『北京図書館古籍善本書目』子部に、「風俗通義十巻<元大徳九年無錫州学刻明修本 黄延鑑跋 一冊 九行一七字 細黒口 四周双辺>」とある書誌(細黒口は線黒口と同じで、版心の上部に縦に黒線のあること)がほぼ一致するので、北京図書館本はこの版の明代修訂本と考えて誤りあるまい。大徳9年(1305)は元二代皇帝成宗の世。寡聞にして本邦にも他に同一伝本があるのを知らない。

○41  白氏文集 銅活字版    明正徳8年(1513)刊 袋綴24冊 

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○41  白氏文集 銅活字版  明正徳8年(1513)刊 袋綴24冊
 表紙は近代の改装で、紺地に金の揉み箔撒き。縦25.9、横17.2糎。改装に際して天地と背を若干切断し、本文の全部に間紙を挟入する。外題なし。内題「白氏長慶集」。目録2冊、本文71巻22冊。上下単辺、左右双辺、縦19.1、横13.1糎。巻尾に、後周陶穀の「龍門重修白楽天影堂記」なる文(広順3年(953)記)を後序の如く置くが、本文は銅活字版であるのに対し、序とともに、これは整版である。刊記はないが、陶穀の文のあと半葉欠落しているので、そこにあったか。白口(版心の上部が白いこと。黒口に対する)魚尾の上に「蘭雪堂」、下に「白氏文書(巻・丁数)」。『北京図書館古籍善本書目』集部に「白氏長慶集七一巻目録二巻<唐白居易撰 明正徳八年華堅蘭雪堂銅活字印本 二四冊、八行一六字白口 左右双辺>」に当り、同館編『中国版刻図録』掲載の書影と比較して全く同版。毎半葉有界8行、16字。北京図書館蔵本解題によれば、「後印正徳癸酉歳(1513)錫山蘭雪堂華堅活字銅版」と印行されていた。蘭雪堂活字本は会通館活字本と並んで、明代活字本の代表的なものであり、『中国版刻図録』によっても、藝文類聚(正徳10年刊)、蔡中郎文集(同年刊)が見られる。唐の詩人、白居易(白楽天)はあまりに著名であり、わが国文学に与えた影響は計り知れない。白氏文集も夙に印行され、渡来したが、本邦に宋版は現存せず(北京図書館には伝存)、この正徳8年銅活字版は、日本でも他に、大倉集古館蔵本(第二四冊末の陶穀「影堂記」3丁を欠く)が知られるのみ。第3冊本文第一丁表右側に、下より「汪士鐘読書」「呉寛」「趙洞」(陰刻)の各角朱印と「汪」の丸朱印を捺すほか、巻二一巻首匡郭の上に「醒老」なる陰刻角朱印を捺す。汪士鐘は清の蔵書家として名高い。全巻に、墨、朱、稀には青墨で傍点を施すのは北京図書館蔵本と同じで、欄外頭書に考勘が往々に記されているのとともに、いずれも中国人の手になると思われる。南宋本を受ける「先詩後筆本」で、北宋本系の「前後続集本」との関係を論ずる上に不可欠な資料。成化21年(1485)の「新鋳字跋」を持つ宮内庁書陵部蔵朝鮮銅活字本とは全く別種であり、刊記を佚するとはいえ、完存する極めて稀覯の伝本。