« 2001年11月 | メイン | 2003年1月 »

2002年7月

2002年7月 5日 (金)

第95回展示 西洋古版日本地図展

第95回展示 西洋古版日本地図展
期間:2002年7月5日(金) ~ 7月31日(水)

95pos1

テイセラ「日本図」(オルテリウス『地球の舞台』より)

「西洋古版日本地図展」開催にあたって

   文学部教授 石田千尋

  今回、鶴見大学図書館が所蔵するヨーロッパで刊行された古地図の中から日本地図を厳選し展示します。
   1298年、マルコ・ポーロが『東方見聞録』の中で日本を紹介して以降、日本はさまざまな形に想像され、西洋の地図上に描かれました(1・2・3)。その後、1543年ポルトガル人が日本にやってくると、ポルトガル商人や宣教師らを通して日本に関する地理的情報は次第に地図上に姿を見せてきました。しかし、初期のものはポルトガル人の知り得た関西近辺までで、関東以北は未知なる世界でした(4・5)。1595年、オルテリウスによって発行されたルイス・テイセラの本州・九州・四国がほぼ正確な対比で描かれた「日本図」(6)(日本の「行基図」(7)を基にしていました)によって、西洋の印刷された日本地図が新時代を迎えたといえます(8)。しかし、17世紀になると必ずしも正確とはいえない様々な情報が加えられ、日本図は変形されながら継承されていきました(9・10・11・12)。1728年のショイヒツァー「日本図」(13)は、17世紀末にケンペルが日本から持ち帰った日本図(14)を基に作成されたものでした。それは、あまり正確なものではありませんでしたが、その後の日本地図に大きな影響を与えつづけました(15・16・17・18・19)。18世紀後半以降には日本近海を航行するヨーロッパ船が多くなり、新発見の報告書から日本地図も正確さが加えられていきました(20・21)。1840年、長崎の出島商館医であったシーボルトが帰国後出版した日本地図によって、ヨーロッパの地図学に残されていた神話や誤謬が除かれ、西洋における日本の地理的形状には近代的な基盤が与えられることになったのです(22)。
 今回展示します16世紀から19世紀に及ぶ西洋古版日本地図を通して、ヨーロッパ各国・地域、各時代における地理上の「日本」認識のありさまと、地図を媒介とした日本と西洋との文化交流の諸相をご覧頂ければ幸いです。

(註)本文中の括弧内の数字は展示品番号です。
 

展示リスト  

1.ヴァルトゼーミュラー「インドシナ半島と大韃靼図」
  (プトレマイオス『世界地理書』より)
   [ストラスブルク 1522年頃]  木版  28.8×45.9cm

2.ボルドーネ「日本図」(『世界島嶼誌』より)
   [ベニス 1528年]  木版  8.4×14.5cm

3.ミュンスター「新世界図」(『世界誌』より)
  [バーゼル  1552年]  木版  25.5×33.9cm

4.オルテリウス「アジア図」(『地球の舞台』より)
  [アントワープ 1570年]  銅版筆彩 37.0×49.4cm

5.ファン・ラングレン「東アジア図」(ファン・リンスホーテン『東方案内記』より)
   [アムステルダム 1596年] 銅版 38.6×52.6cm

6.テイセラ「日本図」(オルテリウス『地球の舞台』より)
   [アントワープ 1595年] 銅版筆彩 35.4×48.2cm

7.行基「大日本国図」(洞院公賢編『新版拾介抄』より)
  [京都 風月荘左衛門 江戸時代前期(17世紀後期)] 木版 21.7×35.6cm

8.ホンディウス「日本図」(『新地図帖』より)
   [アムステルダム 1606年] 銅版筆彩 34.1×44.4cm

9.ヤンソン「日本および蝦夷図」(『新地図帖』より)
   [アムステルダム 1658年] 銅版筆彩 45.4×54.9cm

10.タヴェルニエ「日本図」(『旅行記集』より)
   [パリ 1679年] 銅版 21.2×31.8cm

11.マレ(マネソン=マレ)「日本図」(『世界誌』第2巻より)
   [パリ 1683年] 銅版筆彩 13.8×9.7cm

12.サンソン「日本図」(『アジア地図帖』より)
   [パリ 1683年] 銅版筆彩 18.5×23.8cm

13.ショイヒツァー「日本図」(ケンペル『日本誌』第2版より)
   [ロンドン 1728年] 銅版 46.0×53.0cm

14.石川流宣「本朝図鑑綱目」
   [江戸 相模屋太兵衛 貞享4年(1687)]  木版筆彩  59.4×131.8cm

15.ティリオン「日本帝国図」(サルモン『世界旅行記』第2巻より)
   [アムステルダム 1734年] 銅版筆彩 24.5×31.7cm

16.ベラン「日本帝国図」(シャルルヴォワ『日本の歴史および地誌』第1巻より)
   [パリ 1736年] 銅版 41.7×53.9cm

17.ル・ルージュ「日本および朝鮮図」(『新携帯地図帖』より)
   [パリ 1748年] 銅版筆彩 20.6×27.5cm

18.ロベール「日本帝国図」(『世界地図帖』より)
   [パリ 1750年(1757年)]  銅版筆彩 48.3×53.6cm

19.エロースミス「日本帝国図」
   [ロンドン 1807年] 銅版筆彩 23.5×39.8cm

20.トムソン「朝鮮および日本図」(『新普遍地図帖』より)
   [エディンバラ 1815年] 銅版筆彩 59.0×61.9cm

21.ウォーカー「日本帝国図」
   [ロンドン 1835年] 銅版筆彩 38.9×31.9cm

22.シーボルト「日本図」(『日本』複製版より)
   [ライデン 1840年] 石版 59.4×79.0cm

解説    
1.ヴァルトゼーミュラー「インドシナ半島と大韃靼図」 (プトレマイオス『世界地理書』より)   [ストラスブルク 1522年頃]  木版  28.8×45.9cm 実際にはプトレマイオスの世界像はインドシナ半島までで終わるが、ヴァルトゼーミュラーは、それにマルコ・ポーロによる韃靼とジパングの情報を追加して描いた。 

2.ボルドーネ「日本図」(『世界島嶼誌』より)   [ベニス 1528年]  木版  8.4×14.5cm これはヨーロッパで単独の日本地図として初めて印刷されたものである。この15年後に最初のヨーロッパ人であるポルトガル人が日本にやってくる。

95p2


3.ミュンスター「新世界図」(『世界誌』より)  [バーゼル  1552年]  木版  25.5×33.9cm このミュンスターの地図では、マルコ・ポーロが述べた7448の島々がある日本(Zipangri)は、アジア大陸より北アメリカに近く描かれている。

4.オルテリウス「アジア図」(『地球の舞台』より)  [アントワープ 1570年]  銅版筆彩 37.0×49.4cm このポルトガルから情報を得て描かれたオルテリウスの地図では、日本は関西を少し越えたところで終わっており、豊後は本州にあり、鹿児島は島として描かれている。日本は直立しているように見えるが、緯度線より東西に横たわっていることがわかる。

5.ファン・ラングレン「東アジア図」(ファン・リンスホーテン『東方案内記』より)   [アムステルダム 1596年] 銅版 38.6×52.6cm これは、オランダ商人リンスホーテンがポルトガルから情報を得て作成した地図であり、日本はエビ型をして、関東は南に伸び、東北地方はまだ存在していない。

6.テイセラ「日本図」(オルテリウス『地球の舞台』より)   [アントワープ 1595年] 銅版筆彩 35.4×48.2cm この図はポルトガル人地図製作者ルイス・テイセラによるものであり、当時最新の日本地図としてオルテリウスの地図帳に採用された。日本の「行基図」(7)を基にしており、本州・九州・四国がほぼ正確な対比で描かれている。この地図をもって西洋の日本地図の新時代が始まったといわれる。

7.行基「大日本国図」(洞院公賢編『新版拾介抄』より)  [京都 風月荘左衛門 江戸時代前期(17世紀後期)] 木版 21.7×35.6cm  江戸時代初期より以前の日本図は「行基図」あるいは「行基式日本図」とよばれ、日本全体の輪郭が丸みを帯びた線で表現され、奥羽地方が大きくふくらんだ形で描かれていることや、日本が東西に細長く描画されていることなどがその特色としてあげられる。本図は、6テイセラ「日本図」の基になった地図の系統をひくものである。 

8.ホンディウス「日本図」(『新地図帖』より)    [アムステルダム 1606年]     銅版筆彩 34.1×44.4cm   この図は、6テイセラ「日本図」に拠って描かれたものである。

95p8


9.ヤンソン「日本および蝦夷図」(『新地図帖』より)   [アムステルダム 1658年]    銅版筆彩 45.4×54.9cm   この地図には、オランダ人フリースが1643年におこなった蝦夷と千島列島への探検の成果があらわされている。しかし、フリースが千島列島や樺太を蝦夷の一部と考えたため、この後 150年間、ヨーロッパの地図上で、蝦夷は実際よりずっと大きいものとして描かれた。

95p9


10.タヴェルニエ「日本図」(『旅行記集』より)   [パリ 1679年] 銅版 21.2×31.8cm 宝石商タヴェルニエ自身は、中国までしか行っていないが、バタヴィアで収集した情報をもとに日本図を描いている。日本の形については、過去のカトリック派の手本を採用しており、東日本の方が西日本より目立って大きい。本州の形は全体として少し不恰好な感じである。

11.マレ(マネソン=マレ)「日本図」(『世界誌』第2巻より)   [パリ 1683年] 銅版筆彩 13.8×9.7cm この図は、9ヤンソン「日本および蝦夷図」同様、関西と関東は西から東へと伸びており、また、後の13ショイヒツァー「日本図」のように東北地方は直角に北をむいており、他には見られない独自の型をもっている。四国および九州は非常に簡略化されてきている。 

12.サンソン「日本図」(『アジア地図帖』より)   [パリ 1683年] 銅版筆彩 18.5×23.8cm  この図は、9ヤンソン「日本および蝦夷図」に比べて本州が少し伸びて描かれ、蝦夷地に関してはフリースの発見はまるで無視されている。本州の南東にある小さな島々は9ヤンソン「日本および蝦夷図」では全て房総半島の南にあったが、サンソンは房総半島のまわりに置いている。

95p12


13.ショイヒツァー「日本図」(ケンペル『日本誌』第2版より)   [ロンドン 1728年] 銅版 46.0×53.0cm この図は、長崎の出島商館医ケンペルが日本で出た日本図(14)を基に作成したもので、ショイヒツァーによって出版された。東北地方は北に向いているが、ずんぐりした形になっている。この図はその後、類図を多く生み、ヨーロッパで流布した日本像の一つである。

14.石川流宣「本朝図鑑綱目」   [江戸 相模屋太兵衛 貞享4年(1687)]  木版筆彩  59.4×131.8cm  ケンペルが日本からヨーロッパへ持ち帰った四つの日本の木版地図の一つ。ケンペル死後、ショイヒツァーはこの地図を手本とし、松前を島として描き、能登半島や四国の形、諸国名の漢字表記、海岸線の形成などに役立てた。

15.ティリオン「日本帝国図」(サルモン『世界旅行記』第2巻より)   [アムステルダム 1734年] 銅版筆彩 24.5×31.7cm この図は、13ショイヒツァー「日本図」を手本として描かれたものである。しかし、ティリオンは能登半島の北に「蝦夷または蝦夷が島またはカムチャッカ」の一部を示した。

16.ベラン「日本帝国図」(シャルルヴォワ『日本の歴史および地誌』第1巻より)   [パリ 1736年] 銅版 41.7×53.9cm  この図は、13ショイヒツァー「日本図」を手本としたものであるが、作者ベランはいくつかの修正をおこなった。すなわち、西日本はわずかに南西から北東方向に向き、能登半島は西方向に傾いている。ベランの地図はこれ以降18世紀いっぱい大きな影響力を持ち続けた。

 17.ル・ルージュ「日本および朝鮮図」 (『新携地図帖』より)   [パリ 1748年]   銅版筆彩 20.6×27.5cm ル・ルージュの日本図は全体としてほっそりとしており、南西から北東に伸びる。ル・ルージュは、13ショイヒツァー「日本図」から九州・四国の形と島根・能登・房総および紀伊半島を取り入れた。

95p17


18.ロベール「日本帝国図」(『世界地図帖』より)   [パリ 1750年(1757年)]  銅版筆彩 48.3×53.6cm ロベールの地図は、陸奥湾を囲む津軽および下北半島の形をはっきりと描き、架空の松前島は省かれている。この形は19世紀に入っても影響を及ぼしていく。

19.エロースミス「日本帝国図」   [ロンドン 1807年] 銅版筆彩 23.5×39.8cm この図は、エロースミスが1790年版のセイヤー「日本図」に従って描いたものである。なお、セイヤー「日本図」は、18ロベール「日本帝国図」をもとにして、13ショイヒツァー「日本図」の情報を細部に盛り込んだものであった。

20.トムソン「朝鮮および日本図」(『新普遍地図帖』より)   [エディンバラ 1815年] 銅版筆彩 59.0×61.9cm この図は、2年前に作成されたジョーンズ「日本、朝鮮および韃靼図」に類似するものである。ジョーンズの地図は、1796-97年のブロートンや1805年のクルーゼンシュテルンの日本近海航行による発見の報告書に付けられた地図の影響がみられる。しかし、このトムソンの地図では、本州の海岸線や九州・四国・淡路島がずっと正確になっている。

21.ウォーカー「日本帝国図」   [ロンドン 1835年] 銅版筆彩 38.9×31.9cm ウォーカーの地図は、ジョーンズ「日本、朝鮮および韃靼図」と20トムソン「朝鮮および日本図」の改良部分を結びつけ、さらに鹿児島湾の桜島の形など若干改良を加えたものとなっている。 

22.シーボルト「日本図」(『日本』複製版より)   [ライデン 1840年] 石版 59.4×79.0cm  長崎の出島商館医シーボルトは、1826年、江戸で高橋景保より近代的測量に基づいて作成されたばかりの日本地図を入手した。シーボルトは日本側の取り調べにもかかわらずこの地図をヨーロッパに持ち帰り1840年1枚ものの地図として出版した。この出版により、日本近代の地図学の基礎が置かれたといえる。

参考文献     

・松本賢一編著『欧州古版日本地図集』十一組出版部、1943年。
・神戸市立博物館編『南波松太郎氏収集 古地図の世界』神戸健康教育公社、1983年。
・神戸市立博物館編『秋岡古地図コレクション名品展』神戸スポーツ教育公社、1989年。
・社団法人OAG・ドイツ東洋文化研究協会編集・発行『西洋人の描いた日本地図?ジパング からシーボルトまで 図録』1993年。
・神戸市立博物館編『古地図コレクション?神戸市立博物館?』神戸スポーツ教育公社、1994  年。
・鶴見大学図書館編集・発行『西洋古版日本地図』特定テーマ別蔵書目録集成11、1997年。